Top > 漢文学2(袴田光康)


#include(漢文学項目,notitle)
#contents
|BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c
|BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):''分類''|''国文学科選択必修(A群)/国語科教員必修''|
|区分|[[国文学科]]科目/一般(人数過多の場合は抽選)|
|履修条件||
|単位数|2|
|講師|[[袴田光康]]|
|学位等|文理学部(学士(文学))|
*概要 [#q1f88e6e]
全15回の授業の内、前半の第7回までの授業では律令国家における漢詩文を通史的に辿りながら
東アジアの漢字文化圏における日本の漢詩の独自性について講義していく。
第9回以降の後半の授業では昔話の「浦島太郎」で知られる浦嶋子伝承に関する漢文文献を取り上げ、
その変遷を辿りながら、具体的な漢文訓読の技術を学修していく。
長文の作品の場合には授業内で全文を読むことをできないこともある。(事前事後の学修をした方が良い。)
#br
グループワークや質問されることはない。
評価は2回のレポート課題によってする。
&color(Red){2024年から敗者復活課題といったものを出さなくなった。};
#br
この科目は文理学部(学士(文学))のディプロマポリシーDP2及びカリキュラムポリシーCP2に対応している。
*講師の印象 [#ucc03ead]
宿題や予習復習を重視している。
*令和七年度(2025年度) [#a2becd30]
漢文学1と同じく後期のみ開講。漢文学1と一緒に取るのがおすすめ。
#style(class=submenuheader){{
**後期
}}
#style(class=submenu){{
|BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c
|BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):授業形態|対面授業|
|日程/教室|水曜日 二限目/3405(三号館四階五番教室)|
***第一講目の内容
授業の説明。フィードバックは一回目の課題のみとのこと。他に特筆すべきものはない。早めに終わった。
***第二講目の内容
#region(授業内容)
''授業内容''
-''漢字の概要''
漢字は古代中国に発祥した表語文字である。表語文字とは、一つの文字で発音と意味の両方を表す文字のことを言う。
その起源は紀元前1300年頃に遡と言われ、10万字以上にのぼる文字数の多さが漢字の大きな特徴だが、実際に辞書類に載っているのは一万~五万字程度。
漢字は中国・台湾・モンゴル・朝鮮半島・日本・ベトナム・マレーシア・シンガポールなどで広く用いられたが、
現在は中国語・日本語以外は殆ど用いられなくなった。それでも約15億人が今も漢字を用いている。
-''漢字の起源''
漢字の起源については、『淮南子』や『説文解字』などには黄帝(伝説上の最初の皇帝)に史官として仕えた蒼頡(そうけつ)なる人物が漢字の発明者とされる。
蒼頡は鳥の足跡を見て、足跡の形から鳥の種類がわかるように言葉や概念も同じように書いて表現できると考えて漢字を発明したと伝えられる。(あくまでも伝説)
実際に確認される最古の漢字の起源は、殷王朝(BC17世紀頃~BC11世紀)の時代の甲骨文字である。
甲骨文字とは、占いに用いられた亀の甲羅や牛の骨にその占いの結果などを記した古代文字のこと。
甲骨文字は絵に近い形の象形文字で、これが漢字の源流となったと見られます。
-''漢字の造字法による種類''
甲骨文字は絵文字のような象形文字を基本としたが、一部には指事文字や会意文字も確認されている。漢字はその造字法から四つの種類に分類される。
象形文字...「日」や「山」のように事物の形を象った文字
指事文字...「上」や「下」のように抽象的概念を表した文字
会意文字...「休」や「男」のように象形文字や指事文字を組み合わせた文字
形声文字...「花」や「江」のように意味を表す部分と発音を表す部分を組み合わせた文字
こうした造字法により、多くの文字が作り出されたが、漢字の殆ど(8割程度)が&color(Red){形声文字};で占められている。
-''字体の変遷''
|王朝|年代|文字|h
|殷|BC1600~BC1028年頃|甲骨文字|
|周|BC1100~BC256年頃|金石文|
|秦|BC221~BC206年頃|小篆|
|漢|BC206~220年頃|隷書|
|六朝|222~589年頃|楷書|
 甲骨文字の次に登場するのが、殷・周(BC11世紀~BC8世紀)時代に青銅器に鋳込まれた金文である。石に刻まれた石文と併せて金石文とも呼ばれている。
特に周代以降の金文においては、形声文字が増えるという特徴が見られたと言われている。
 周王朝が滅びると、群雄割拠の春秋戦国時代に入り、地方ごとにそれぞれの字体を用いるようになったが、後に秦(BC221~206)の始皇帝が統一した。
統一した書体は&color(Red){小篆(篆書)};と呼ばれている。小篆は金文の流れを汲む大篆を元に作られ、よりバランスの整った字形となった。
 篆書は曲線等の装飾的な要素があった為、漢王朝(BC202~220年)になると木簡や竹簡を使う実務官僚は早く書くべく、篆書を簡略化し、直線的な文字を用いるようになった。
これが&color(Red){隷書};と呼ばれる書体である。隷書を走り書きして崩した字体がやがて&color(Red){草書};となる。
また漢代の末期から六朝時代(222~589年)かけて隷書をより直線的に表記した&color(Red){楷書};が生み出された。
 殷の甲骨文字→周の金石文→秦の篆書→漢の隷書→六朝の楷書と、時代ごとに漢字は書体を変化させながら、次第に実用性を帯びた文字として洗練されていった。
隋(581~618年)や唐の時代(618~978年)に入ると、楷書が一般的に広く用いられるようになり、科挙でも楷書が「正字」として用いられた。
宋朝以降は印刷とも結びついて楷書が漢字の書体として標準化した。今日、用いられる多くの漢字はこうして定着していった。
-''日本への伝来''
漢字の伝来については『古事記』や『日本書紀』の中に応神天皇の時代(五世紀前半)に百済の王仁(生没年未詳)という学者が『千字文』や『論語』を齎したという記事がある。
これらの書物とともに漢字が伝わったということになる。考古学的には埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文の漢字が最も古い例であり、
471年のものと推定されている。文献的にも考古学的にも漢字が5世紀に日本に伝来していたことは確かなようである。日本は輸入した漢字(楷書)を元に仮名文字が作った。
※王仁は「わに」と読む。
※稲荷山古墳出土の鉄剣には「辛亥年七月中記/乎獲居(ヲワケ)臣上祖名......獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時......」という記述が見られる。
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#region(課題と答え(返り点のみ))
''課題と答え(返り点のみ)''
・次の白文に返り点と送り仮名を付しなさい。
①我読書(ワレショヲヨム)
→我&size(10){レ};読&size(10){レ};書
②我好読書(ワレショヲヨムヲコノム)
→我好&size(10){レ};読&size(10){レ};書
③我与彼書(ワレカレニショヲアタフ)
→我与&size(10){二};彼書&size(10){一};
④我与書於彼(ワレショヲカレニアタフ)
→我与&size(10){二};書於彼&size(10){一};
⑤平-定天下(テンカヲヘイテイス)
→平-定&size(10){二};天下&size(10){一};
⑥不遠千里之道(センリノミチヲトオシトセズ)
→不&size(10){レ};遠&size(10){二};千里之道&size(10){一};
⑦不入虎穴、不得虎子(コケツニイラズンバ、コシヲエズ)
→不&size(10){レ};入&size(10){二};虎穴&size(10){一};、不&size(10){レ};得&size(10){二};虎子&size(10){一};
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***第三講目の内容
#region(授業内容)
''授業内容''
-''『古事記』について''
漢字文化を吸収する中で、中国に倣って『古事記』や『日本書紀』という歴史書が日本でも編纂されようになった。これらの史書には漢字の伝来に関する記述が見られる。
『古事記』は現存する日本最古の歴史書で、その成立は元明天皇の和銅5年(712)のことである。
内容は天地の開闢から始まり、神々の神話を記した神代から、推古天皇(554~628年)の時代までの出来事を紀伝体で記している。
その序によると、稗田阿礼が誦習した「帝皇日継(帝紀)」や「先代旧辞(旧辞)」を太安万侶が漢文に編纂したものだと言う。
「誦習」とは、単なる暗誦ではなく、書物を口に出して繰返し読むことであり、漢字の読み書きに習熟していたという意味だとも言われている。
漢字の伝来については『古事記』中巻の&color(Red){応神天皇の条};に記されており、鎌倉時代に書写された尊経閣文庫蔵『古事記』を見てみると、
漢文には返点や送仮名が、また欄外には頭注の見出しが付されているのが分かる。このように『古事記』は漢文で記され、訓読する形で読まれていた。
-''『日本書紀』について''
『日本書紀』は勅令で編纂された最初の国史である。編年体で記されており、『漢書』『三国志』などの中国の史書の形式を参照して書かれたと見られる。
その成立は養老4年(720)で、『古事記』の成立から僅か8年後であった。こうした修史事業には漢文及び漢字文化に習熟した書記が必要であった事は想像に難くない。
5世紀から6世紀にかけて朝鮮半島の百済などから日本に移り住んだ多くの渡来の人々がおり、彼らは史(フヒト)と呼ばれる朝廷の書記官を構成していた。
中国に倣って国史が編纂された際には、そうした漢文に習熟した渡来の人々が大きな役割を果たしたと考えられる。
-''漢字伝来記事の比較''
訓読の方法を身に付ければ、1300年前の史料でも、あるいは中国や韓国の漢文資料でも、日本語として理解することができる。
漢字の文献史料を読む際には大変便利であり、中国文化と密接な関係にある日本古代の歴史や文学を研究する上でも必要な技術と言える。
古事記』と『日本書紀』の両方に漢字伝来の記事があるが、違いも見られ、また、内容も正しいとは言い難い。
『古事記』では百済の和邇吉師が『論語』と『千字文』を齎し、これらの書物によって初めての漢字が伝来したとされているが、
『千字文』の成立は6世紀前半であり、応神朝(4世紀後半~5世紀前半)の史実としてはあり得ないのである。
これらの記事は史書編纂にも関与したらしい渡来系氏族の阿直史や文首らの始祖伝承ともなっており、自らの氏族の由来を史書に盛り込んだものとも言えよう。
-''漢文の読み方''
まず文の構造に注目し、主語(省略されていることもある)・述語(動詞を見つけることが重要)・目的語を把握する。次に述語・目的語に合わせて返り点を付けていく。
この時、固有名詞(人名や地名)がわかると文の構造が把握しやすくなる。そして、最後に文脈に合わせて送り仮名や読み添えを補う。
ただし、訓の読み方や読み添えは、一つだけの正解があるというわけではなく、いくつかの訓み方が可能である。
訓読はあくまでも漢文の内容を理解するための手段であり、解釈であることを忘れてはならない。
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#region(課題と答え(返り点のみ))
''課題と答え(返り点のみ)''
 「一」「ニ」「三」点で足りない場合には、「上」「中」「下」点を、更に必要な場合には「甲」「乙」「丙」点を用いる。
①汝知我欲読古人書。(ナンジハワレノコジンノショヲヨマントホッスルヲシル)
→汝知&size(10){三};我欲&size(10){レ};読&size(10){二};古人書&size(10){一};。
②不聞人従日辺来。(ヒトノジツペンヨリキタルヲキカズ) ※ヒント:「従」は下から返るときには「よリ」と読むことが多い。
→不&size(10){レ};聞&size(10){下};人従&size(10){二};日辺&size(10){一};来&size(10){上};
③悪称人之悪者。(ヒトノアクヲショウスルモノヲニクム) ※ヒント:「悪」には「にくム・そしル・いづクンゾ・いづクニカ・あく」等の読みがある。
→悪&size(10){三};称&size(10){二};人之悪&size(10){一};者
④我不以其所-以養人者害人。(ワレハソノヒトヲヤシナフユエンノモノヲモッテヒトヲガイセズ) ※ヒント:「所以」の読みは「ゆゑん」で理由や根拠の意味。
→我不&size(10){乙};以&size(10){下};其所-&size(10){二};以養人&size(10){一レ};者&size(10){上};害&size(10){甲レ};人。
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***第四講目の内容
#region(授業内容)
''授業内容''
>補足
〈訓点〉照古王、&color(Navy){以};&size(10){&color(Red){二};};牡馬壱疋・牝馬壱疋&size(10){&color(Red){一};};付&size(10){&color(Red){二};};阿知吉師&size(10){&color(Red){一};};&color(Navy){以};貢上。
〈訓読文〉照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋ヲ以テ阿知吉師ニ付シテ貢上ル。
※初めの「以」は訓読が必要(手段方法の意)。二つ目の「以」は「モと訓読しても間違いではないが(順接の接続詞)、置字として訓読しなくても良い。「受レ命以貢上人」の「以」も同様。

>補足
〈訓点〉十六年春二月、王仁来&color(Navy){之};。則太子菟道稚郎子師&color(Red){&size(10){レ};};&color(Navy){之};。
〈訓読〉十六年ノ春二月ニ、王仁来タリ。則チ太子菟道稚郎子之ヲ師トス。
※注意したいのは「之」の訓じ方。「王仁来之」の「之」は不読。(「来レ之」て「之ニ来タリ」と訓じても間違いではないが、原則的には文末の「之」は不読)
※「師之」の「之」は不読として単に「師トス」と訓じてもいいが、「之ヲ師トス」と訓じた方が文意がわかりやすい(「之」は王仁を指す)。
※文末の「之」は置字として不読とするのが原則。ただし、文脈によっては返点を補って訓読した方がわかりやすくなる場合もあるので注意

-''『懐風藻』について''
『懐風藻』は日本最古の漢詩集。その成立は、序文によると奈良時代(710~794年)の天平勝宝3年(751年)とのこと。
編者については不明だが、近江朝から奈良時代にかけての64名の詩人が取り上げられており、詩の総数は118首(序には120首とある)に上る。
その詩の殆どが行幸や宴会などの公的な場で作られた五言詩であり、中国の六朝(222~589年)文学を代表する『文選』の影響を強く受けて四六駢儷体の対句表現を多用する点などにその特徴がある。
-''『懐風藻』成立の背景''
『古事記』や『日本書紀』の編纂には漢字文化に精通した渡来系の人々が大きな役割を果たしたと考えられるが、天智天皇(在位668~672年)が律令制度を本格的に導入してからは、
公文書も全て漢字で表記するようになったので、政治に携わる貴族や官僚たちも漢字の習得が不可欠になった。自ずと漢字とその文化は官職にある男性貴族を中心に普及していった。
隋や唐の諸文化を模倣して律令国家を形成していく中で、中国に倣って日本でも儀式や宴会の場で漢詩が作られるようになる。
漢詩を詠むことは、単に唐風趣味とか文学的教養の問題ではなく、政治そのものであったということが、この時代の特徴である。それらの初期の日本漢詩を集めたのが『懐風藻』。
|>|『懐風藻』の時代区分と代表的詩人|h
|第一期 近江朝時代(662~672年)|大友皇子|
|第二期 天武・持統朝時代(672~697年)|大津皇子・持統天皇の吉野行幸|
|第三期 文武朝時代(697~707年)|文武天皇|
|第四期 奈良時代前期(707~729年)|長屋王とその文学サロン|
|第五期 奈良時代後期(729~751年)|藤原総前・藤原宇合|
-''『懐風藻』の序''
>序文冒頭
対句表現に着目して改行すると分かりやすい。
逖聴ニ前修一、遐観ニ載籍一、
襲山降蹕之世、橿原建邦之時、
天造草創、人文未レ作。
至ニ於神后征坎品帝乗乾一、
百済入朝啓ニ龍編於馬厩一、
高麗上表図ニ烏冊於烏文一。
王仁始導ニ蒙於軽嶋一、
辰爾終敷ニ教於訳田一。
遂使下俗漸ニ洙泗之風一、人趨中斉魯之学上。
逮ニ乎聖徳太子一、設レ爵分レ官、肇制ニ礼儀一。
然而専崇ニ釈教一、未レ遑ニ篇章一。

#endregion
#region(課題と答え(返り点のみ))
''課題と答え(返り点のみ)''

//&size(10){&color(Red){レ};};
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***第五講目の内容
#region(授業内容)
''授業内容''
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#region(課題と答え(返り点のみ))
''課題と答え(返り点のみ)''

//&size(10){&color(Red){レ};};
#endregion

***第六講目の内容
#region(授業内容)
''授業内容''
#endregion

#region(課題と答え(返り点のみ))
''課題と答え(返り点のみ)''
//&size(10){&color(Red){レ};};
#endregion
***第七講目の内容
#region(授業内容)
''授業内容''
#endregion
#region(課題と答え(返り点のみ))
''課題と答え(返り点のみ)''

//&size(10){&color(Red){レ};};
#endregion
}}
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,20,)

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