<a href="https://nichidaibunrigojokai.swiki.jp/index.php?cmd=related&page=%E6%96%87%E7%AB%A0%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E6%B3%95%28%E5%9D%AA%E8%B0%B7%E5%8D%93%E6%B5%A9%29">文章表現法(坪谷卓浩)</a> の編集
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> 文章表現法(坪谷卓浩)
文章表現法(坪谷卓浩)
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*概要 [#Gaiyou] 論理的な文章の執筆を中心に文章執筆の基本を学ぶ。また、国語科の教科書に掲載される作品を通して教員(「国語」)に必要なスキルを指導する。 提出された文章は添削をし、個別にフィードバックを行う。その際、個人が特定できる情報を消した上で受講生に配布し、合評する場合がある。 受講するには抽選に当たる必要がある。 #br 毎回、出席確認が行われると共に感想文の提出を求められる。 授業では度々、大勢の前で発表と質疑応答の時間が設けられる。 #br この科目は文理学部のDP 及びCP の1,3,5に対応している。
''■[[文章表現法]]'' #contents |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):''分類''|''国語科教員必修''| |区分|[[教職課程>教職コース/教職課程]]科目| |履修形態|完全抽選| |履修条件|抽選に当たる| |単位数|2| |講師|[[坪谷卓浩]]| |学位等|学士| *概要 [#Gaiyou] 論理的な文章の執筆を中心に文章執筆の基本を学ぶ。また、国語科の教科書に掲載される作品を通して教員(「国語」)に必要なスキルを指導する。 提出された文章は添削をし、個別にフィードバックを行う。その際、個人が特定できる情報を消した上で受講生に配布し、合評する場合がある。 受講するには抽選に当たる必要がある。 #br 毎回、出席確認が行われると共に感想文の提出を求められる。 授業では度々、大勢の前で発表と質疑応答の時間が設けられる。 #br この科目は文理学部のDP 及びCP の1,3,5に対応している。 *講師の印象 [#Inshou] LMSのメール機能を多用する。 たまにお菓子を配ってくれる。 *令和七年度(2025年度) [#h81d5434] #style(class=submenuheader){{ **前期 [#p327c477] }} #style(class=submenu){{ |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):授業形態|対面授業| |日程/教室|土曜日 三限目/3302教室(三号館三階二番教室)| //***第一講目の内容 }} #style(class=submenuheader){{ **後期 [#e8f55dd6] }} #style(class=submenu){{ |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):授業形態|対面授業| |日程/教室|土曜日 三限目/3302教室(三号館三階二番教室)| ***第一講目の内容 [#k43ed0d6] 授業の説明。自己紹介文を書く課題が出される。 ***第二講目の内容 [#v36c023f] 書いた自己紹介文をみんなの前で発表する。 自己紹介文と実際の発表の差異を確認し、思ったことをそのまま文章にすることの難しさや文体について考える。 文語が主流だった昔は特にそのまま文章にすることが難しかった。 ***第三講目の内容 [#uab76bac] 文學理論の話。 #region(作家論) ''作家論'' >''石原千秋「読者はどこにいるのか読者論入門』(河出書房新社、2021年)'' 「作家論が成立するためには、作家は論じるだけの価値のある特別な人間でなければならなかった。 さらに、文学という美を読者に示すことができる、美の体現者でなければならなかった。 そうした作家によって書かれた小説を読めば人格が陶冶されるという信念が、小説を国語教育のなかに導き入れたのである。」 #endregion #region(作品論) ''作品論'' >''石原千秋 前掲書'' 「作品から「作者の意図」を読み込むことが作品論の最終目的だったことだ。 したがって、この時代の作品論には、論証の過程で作家の書簡や日記のたぐいが利用されることが少なくなかった。 作品論パラダイムにおいては、「この作品では作者はこういうテーマを書こうとした」と論じるのである。(中略) その結果、何らかのヒューマニティとか人格であるとか、社会に対するある種の批評性をもつような「作者の意図」が想定されていた。 つまり、社会的に価値のある「作者の意図」が想定されていたわけだ。」 #br →誤読する権利 >''ロラン・バルト 花輪光訳『物語の構造分析』(みすず書房、1979年) 「作者の死」'' 「言語学的には、作者とは、単に書いている者であって、決してそれ以上のものではなく、 またまったく同様に、わたしとは、わたしと言う者にほかならない。 言語活動は《人格》ではなくて《主体》をもち、この主体は、それを規定している言表行為そのものの外部にあっては空虚であるが、 言語活動を《維持する》には、つまり、それを利用しつくすには、これで十分なのである。」 #endregion #region(テクスト論) ''テクスト論'' >''疋田雅昭『文学理論入門一論理と国語と文学と」(ひつじ書房、2021年)'' 「「テクスト」という言葉の背景には、「織物」から連想される比喩がある。 「織物」は、無数の縦糸と横糸を編み合わせたものであり、縦線と横線の重なり合いで表現されるデザインを「テクスチャー」と呼ぶのも同じ語源である。 「作者」や「作品」と呼ばれているものは、織物の中の縦糸と横糸の交差する場所の一つのようなもので、 そこでは沢山の同時代的影響(横糸)と、沢山の歴史的影響(縦糸)が交差している。 「作者」が意図して作品に流し込むことが出来るものなど自身に流れ込んでいるものの中のほんのわずかであり、 「作品」を構成しているほとんどの要素は、制作者の意識出来ないもので構成されているというのが、「テクスト」という概念の肝要である。」 >''ロラン・バルト 鈴村和成訳『テクストの愉しみ』(みすず書房、2017年)'' 「愛する人といっしょにいて、ほかのことを考える。そんなふうにして私はもっとも良き思考を手に入れ、仕事に必要なもっとも良きものを考え出す。 テクストについても同様だ。間接的に自分を聴きとらせるようになると、テクストは最良の楽しみを私のなかにつくり出す。 テクストを読みながら、しばしば顔をあげ、ほかのことれ聴くようになる。かならずしも楽しみのテクストにされる。 しばしば入れされて、ほとんど軽率なおこないであればいい。 頭の突然の動きとか、私たちが聴いているものを何も聞いていない、私たちが聞いていないものを聴いている、一羽の小鳥の動きのような。」 #br →文章の真意は分からない。 #endregion //・「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。/ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、あるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」 //宮沢賢治「注文の多い料理店』序(杜陵出版部/東京光原社、1924年) //・「これらについて人や銀河や修羅や海胆は/宇宙塵たべ または空気や塩水を呼吸しながら/それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが/それらも畢竟ころのひとつの風物です/たらたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで/ある程度まではみんなに共通いたします/(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)」 //宮沢賢治『春と修羅』序(関根書店、1924年) //・「私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許さしない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません。」 //宮沢賢治 森佐一宛書簡(1925年2月9日)『新校本宮澤賢治全集第15巻』(筑摩書房、1995年) ***第四講目の内容 [#vca1c8ab] #region(名辞以前の世界) ''名辞以前の世界'' 名詞にすることで失われる感覚がある。 #br -【中原中也(1907-1937)】 >「サーカス」 (『山羊の歌』所収) 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」 >「芸術論覚え書」 一、 「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてみればよい。 一、 名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは尠くも芸術家にとっては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、 やはり「かせがねばならぬ」といふ、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならぬ」といふ意識は芸術と永遠に交らない、 つまり互ひに弾き合ふ所のことだ。 一、 技巧論といふものは殆んど不可能である。 何故なら技巧とは一々の場合に当つて作者自身の関心内にあることで、殊に芸術の場合には名辞以前の世界での作業であり、 技巧論即ち論となるや名辞以後の世界に属する所から、 技巧論といふものはせいぜい制作意向の抽象表情を捉へてそれの属性を述べること以上には本来出ることが出来ない。 つまり便宜的にしか述べることが出来ない。而も述べられたことから益するのは述べた人自身かそれと非常に相似的芸術家に役立つだけである。 #br -【アルチュール・ランボー (1854-1891)】 >「母音」(中原中也訳) A(アー)は黒、E(ウー)は白、I(イー)は赤、U(ユー)は緑、O(オー)は赤、母音たち、 おまえたちの穏密な誕生をいつの日か私は語ろう。 >「共感覚」とは(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 文責 今井省吾) 音を聞くと色が見えたり、味に色を伴ったりするなどのように、ある一つの感覚受容器に刺激が与えられたとき、 他の種類の感覚が影響を受けて、その感覚に対応する刺激も与えられているように感じる現象。 とくに、ある調子の音を聞くと、その音に結び付いて一定の色を感じることを色聴という。 しかし高い音には明るい色、低い音には暗い色が、目に見えるように感じるといった典型的な共感覚保持者はきわめてまれであるが、 ときには一般の人にも共感覚と類似する現象がみられることもある。たとえば、黄色い声、甘いささやきのように感覚領域の違うものを連想するとか、 高い音で色が輝きを増すように感じるとか、などである。 #endregion #region(『やまなし』) ''『やまなし』'' 『やまなし』は、『岩手毎日新聞』第7584号、1923(大正12)年4月8日付、第3面第5段中途~第7段に掲載された。 万物流転・諸行無常が主題か。 #br >''教科書のなかの「やまなし」―〈難教材〉としての「やまなし」―'' -向山洋一「教師の出会いもドラマである」(佐々木俊幸、西尾一『分析批評による「やまなし」への道』所収、 明治図書出版、1986年) 「「やまなし」は、教師にとって難教材である。プロを目指す教師なら一度は通る関門である。 「やまなし」を授業できることは「プロとして黒帯の腕がある」ことを物語るからだ。」 #br -西郷竹彦監修、山中吾郎著『「やまなし」の授業 文芸研の授業①/文芸教材編』(明治図書出版、2003年) 「「『やまなし』は難しい」という声をよく聞きます。「どう授業していいかわからない」という人もいます。 ある実践家などは教育誌の中で、〈小学校の国語教材の中で、最も難しい教材〉と書いています。たしかに「やまなし」は難しい教材です。 もちろん出来事の筋は理解できますし、一読するだけでも独特の描写や比喩のおもしろさを味わうことはできるでしょう。 ところが、「この作品の主題・思想は何か」とか「この教材で子どもたちにどんな力を育てるか」というようなことを考え始めると、とたんに難しさを感じます。」 >''「幻灯」について一「娯楽教育メディア」としての〈幻燈〉一'' -青山貴子『遊びと学びのメディア史 錦絵・幻燈・活動写真』(東京大学出版会、2019年) 「これは、教育幻燈が教育メディアとして利用されつつ、メディアの特性として江戸時代の写し絵から続く娯楽的要素を含んでいたからであり、 その意味で教育幻燈は、(中略)、〈教訓道徳図〉からの系譜に「写し絵」の娯楽的要素を取り入れた、「教育娯楽メディア」と位置づけることができよう。 こうした「教育娯楽」という特性こそ、政府が通俗教育方法として注目した点であり、実際に民衆の間で幻燈が流行した理由であるといえる。 逆にいえば、そうした写し絵との連続性を巧みに利用することで、教育と娯楽が混在した通俗教育が実現したのだといえよう。」 #br -岩本憲児『幻燈の世紀一映画前夜の視覚文化史』(森話社、2002年) 「幻燈は絵そのものが伝達や鑑賞の対象になるよりも、集団で見る行為、集団で聞く行為の共同体験が新聞・雑誌とは異なる場をもたらしたというべきだろう。 識字率の低い集団や、読書習慣のない人々へのプロパガンダとして、あるいは地域社会の連帯感を高める公的メディアとして、幻燈は娯楽と教育とを兼ね備えていた。」 #br #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=p0hQh7mNJ5c) #endregion ***第五講目の内容 [#y92e296c] 国語科の教材としての『永訣の朝』は主題を単なる悲しみではないとしている。 →「最愛の妹の死に臨んで、「わたくし」は悲しみと喪失感を「天上界への転生」への希望に昇華させる。(以下省略)」 #region(動画) ''動画'' 宮沢賢治の『永訣の朝』と『手紙 四』には死んだ妹は何処へ行くのかという問いが含まれている。 >''宮沢賢治『永訣の朝』'' #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=a-S5dPsj5yk) >''宮澤賢治『手紙 四』'' #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=GADDEmk6EMs) #endregion ***第六講目の内容 [#r39eb07e] 現代文化の中の宮沢賢治について。 どのように創作の源になっているか。 #region(槇原敬之『雨ニモ負ケズ』と宮沢賢治) ''槇原敬之『雨ニモ負ケズ』と宮沢賢治'' #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=h74x4XTWXJ8) #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=tBYABW_ixG4) 「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 宮沢賢治『農民芸術概論綱要』 #hr 槇原敬之『雨ニモ負ケズ』は、2002年に発表された曲である。 槇原敬之は二十世紀後半に覚醒剤の罪で逮捕された。 歌詞に含まれる禁欲と利他は宮沢賢治の『雨ニモマケズ』や『農民芸術概論綱要』が含む「己の枠を超えて」という思想に 影響を受けていると考えられる。(挫折→利他) 宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は宮沢賢治が死にそうな時に書かれた。 #endregion #region(米津玄師『Lemon』と宮沢賢治) ''米津玄師『Lemon』と宮沢賢治'' #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=SX_ViT4Ra7k) #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=fTr2zOQuNV4) #hr 米津玄師『Lemon』は、2018年に発表された曲である。米津玄師は2018年前後に祖父を亡くした。 高村光太郎は当時、無名だった宮沢賢治の作品に出会い、宮沢賢治を広く世に知らしめるための大きな役割を果たした。 #br 米津玄師『Lemon』の「切り分けた果物の欠片の様に」は『永訣の朝』の「これらふたつのかけた陶椀に」と関連するか。 「あなた」とは誰なのか。一人に定まるのか。 #endregion #region(米津玄師『カムパネルラ』と宮沢賢治) ''米津玄師『カムパネルラ』と宮沢賢治'' #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=XeFQJ6-XoD0) #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=mrWqaZ4cfbI) >''[[米津玄師「3年かけて磨き上げた傷だらけの宝石」>https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi16/page/3]]'' カムパネルラに対して歌っている曲ではあるんですけれど、歌っている人はジョバンニではなく、どちらかというとザネリというイメージです。 ザネリはいじわるな子で、カムパネルラが死ぬ直接的な原因になってしまった人。自分はザネリにすごく感情移入する部分があるんです。 人間は犯した過ちによって、直接的、間接的に限らず、誰かの死の原因になり得る。自分のいろんな選択が、誰かの死につながっていると思うんです。 タイムリーな話で言うと、例えば自分が病原体の保有者で、それを知らないうちに人に感染させてしまって、 それによってその人が重い病気になって死んでしまうこともあり得る。いろんな選択が誰かの死の可能性につながっている。 ザネリはそれを目の当たりにした人間だと思うんです。カムパネルラの死に直接的に関わってしまって、それを引きずりながら生きていく。 それが自分の性質としての自罰的な部分とリンクしたというか。 #hr 『銀河鉄道の夜』という物語は終わるが、ザネリの物語は始まった。 #br 『カムパネルラ』の「波打ち際にボタンが一つ」は中原中也の『[[在りし日の歌>https://www.youtube.com/watch?v=cruN9CgFDQ4]]』(永訣の秋・月夜の浜辺)のブリコラージュだろう。 ブリコラージュ(フランス語で「手仕事」の意)とは文化人類学の用語で「未開社会で作った物と作った物とを噛み合わせること」。 #endregion #region(ヨルシカ『又三郎』と宮沢賢治) #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=siNFnlqtd8M) #youtube(https://www.youtube.com/watch?v=GRc_8QOq678) #hr Dの音は心に変化をもたらす音らしい。 #endregion ***第七講目の内容 [#od0e5f9a] 文章表現が卓越している「歌詞」を自ら選択し、その表現の特徴について分析する。(前回出された課題) 選んだ楽曲を発表する。[[文章表現法]]の性格上、音楽性よりも文章表現について考える。 //#region(プレゼンテーション・リスト) //|曲名|アーティスト名|発表年|h //|「クスシキ」|Mrs. Green Apple|2025年| //|「論理空軍」|P-MODEL|1999年| //|「薄明光線」|Chevon|2023年| //|「双葉」|あいみょん|2022年| //|「ピーターパン」|優里|2020年| //|「優しい彗星」|YOASOBI|2021年| //|「Filament」|Uru|2025年| //|「水平線」|back number|2021年| //|「満ちてゆく」|藤井風|2024年| //|「If You’re Too Shy (Let Me Know)」|The 1975|2020年 //|「Star Parade」|スタァライト九九組|2020年 //|「人生は夢だらけ」|椎名林檎|2017年 //|「君よ 気高くあれ」|シユイ|2022年| //|「橙」|Mrs. GREEN APPLE|2023年| //|「大丈夫」|マルシィ|2023年| //|「やわらかな午後に遅い朝食を」|秦基博|2006年| //#endregion ***第八講目の内容 [#s641294d] 発表。 ***第九講目の内容 [#k961ea78] 発表。 ***第十講目の内容 [#k2dc39f2] 発表と書評の書き方について。 >''書評の書き方'' 鹿島茂『書評家人生』(青土社,2023年) -① 最初のページから最後のページまで飛ばし読みせずに、注も含めて一冊すべて読んだうえで書評する。 -② 読者としてはある程度の知的好奇心はもっているが、対象としている本のジャンルに関しては、まったくの素人のような人を想定している。 イントロはそうした読者に訴えかけるつもりで書かれている。 -③ 基本的に、書評を引き受けた以上、たとえそれが自分の選択した本でなくとも、読者に、書店で一度は手に取ってみることを勧める方向で書評する。 ただ、本として完成度に問題のある場合は、それを指摘することもためらわない。 -④ 著者の執筆意図と主張を汲み取りながら、なによりも、内容を的確に要約するように心掛ける。 様々な傾向のエッセイや短編小説を一冊にまとめた本の場合には、その中で著者の主張や個性が最も色濃く滲み出ているエッセイや短編を中心にして取り上げる。 -⑤ 原著の文体や肌合いを知ってもらうために、あえて引用は多めにする。 理想を言えば、引用だけで書評が成り立つようにしたい。引用すべき箇所がうまく捜し出せたら、書評としては、その使命を半ば果たしたといえる。 -⑥ 評価は、その本の絶対的価値よりも相対的価値に比重をかける。 いいかえれば、これまでに出版された他の本と比べてオリジナルな部分があればその点を評価し、 その上で、できるなら、その本がどのようなポジションに位置するのかを明らかにする。一定の水準に達してはいても、二番煎じ的な内容の本は選択を避ける。 -⑦ 同時に、思想的統一性、文体の巧拙、構成のバランス、読みやすさなどといった、フォルムの面も重視する。表現だけが難解な本は取り上げない。 -⑧ 本を厚さで判断しない。注の多さに平伏しない。要は、質の問題である。 -⑨ 書評としてそれだけで完結した読み物となるように努める。 -⑩ 書評子が本を評価する以上に本によって書評子が評価されることを肝に銘じておく。 -⑪ もちろん、以上の原則は①を除いて努力目標であり、必ずしもすべての書評で守られているわけではない。 ⑤はプロのやることなので、学生は単語や一節を抜き取ることを意識。 一文の長さは短めにするとまとまりが良い。 ネットで調べれば手本が見つかるはず。 ***第十一講目の内容 [#cd83ff31] 『となりのトトロ』を視聴。 ***第十二講目の内容 [#l17afd8c] 朝日新聞社の「小説tripper」1996夏季号を読む。→宮沢賢治の影響を確認 また、『となりのトトロ』を考察する。 #region(『となりのトトロ』の考察) ''『となりのトトロ』の考察'' 『どんぐりと山猫』との共通点⇨どんぐりが異界に通じる。 #br |>|『となりのトトロ』の情報|h |舞台|昭和30年代の埼玉県の所沢| |公開年|昭和63年(1988年)| |年齢|さつき:11歳&br;めい:5歳| 昭和30年代は敗戦から少し落ち着いてきたあたり。それに対して昭和63年はバブル期。 僅か30年で景色は激変した。(1988年~2025年の間では大して景色は変わらなかった。逆に怖い。) 舞台は昭和30年代なので、「さつき」や「めい」は、現在ではお婆ちゃんである。 #endregion ***第十三講目の内容 [#m64b7134] 「となりのトトロ」と「どんぐりと山猫」を比較することにより、文章と映像の表現の違いについて学ぶ。 「小説tripper」1996夏季号で宮崎駿は「どんぐりと山猫」は映像化できない魅力があるとし、そういうものは映像化してはならないと述べた。 ***第十四講目の内容 [#r89ea3de] 書いた書評の改善点を把握する。他の人の書評を見て評価をつける。 他の人と講師による評価は後で共有される。 ***第十五講目の内容 [#r1ccce14] 書いた書評の改善点を把握する。 }} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,20,)