<a href="https://nichidaibunrigojokai.swiki.jp/index.php?cmd=related&page=%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2%28%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%BE%9D%E5%AD%90%29">近代文学史(久米依子)</a> の編集
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> 近代文学史(久米依子)
近代文学史(久米依子)
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***第十四講目の内容 [#u1cf9b19] #region(新興芸術派) ''新興芸術派'' 大正末期から昭和初頭にかけて新感覚派の跡を受け継いで、 反マルクス主義(反プロレタリア文学)の立場から次第に台頭していった。 >''小林秀雄'' 昭和初期、批評も文学作品たり得ると証明した。 >''堀辰雄'' 私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、 意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。 芥川龍之介に師事したが、芥川が死んでしまったので独学でフランス文学を学んだ。 著作に『風立ちぬ』がある。 『風立ちぬ』に登場する節子のモデルは堀の婚約者であった矢野綾子である。綾子は結核で死んだ。 また、堀自身も結核で死ぬことになった。 >''梶井基次郎'' //兵庫県伊丹市で療養生活を送る。 明治34年(1901)大阪市西区土佐堀で生まれる。三高在学中から小説を書き始める。 東大英文科在学中の大正14年(1925)、中谷孝雄・外村茂らと共に同人誌「青空」を創刊、『檸檬』『城のある町にて』などを発表。 昭和元年(1926)、少年時代からの肺結核療養の為、伊豆湯ヶ島へ。 同地にいた川端康成を知る。作品集『伊豆の踊子』の校正も手伝っている。 その後、『冬の日』(肺を病む者の自意識を書いた作品)、『冬の蠅』などを発表したが、病状は進み東大は中退。 その後、両親のいる大阪で療養生活 に入り、兄のいる伊丹市では1年あまり療養した。 昭和6年(1931)作品集『檸檬』を刊行。翌昭和7年(1932)31歳の時、『のんきな患者』を「中央公論」に発表し、 ようやく周りから評価を受け始めるものの、その数ヶ月後には容態が悪化、死去。命日には檸檬忌が営まれている。 『Kの昇天』は美しいイメージと死を伴っている。 #br https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a17/を参考 >''Kの昇天'' 副題付きでは『Kの昇天――或はKの溺死』となる。 -[[あらすじ>https://ja.wikipedia.org/wiki/K%E3%81%AE%E6%98%87%E5%A4%A9#%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98]] N海岸で転地療養していた「私」は、ある満月の夜に砂浜でK君と知り合ったのを機に、 1か月ほどの期間、お互いの旅館を訪ねたり一緒に散歩したりと親しく交流した。 やがて「私」の方は健康を取戻し一足先にその地を去ったが、病気が進んでいる様子のK君の方はまだ残留していた。 #br 「私」はK君の知人から、N海岸でK君が溺死したという報せを受け取った。 手紙の主の「あなた」はK君の死が過失なのか自殺かが判らず、もし自殺なら原因は何かと思い悩んでいるようだった。 「私」は面識のない「あなた」へ、K君の死の謎について思い当たることを書き送りながら、「影」に憑かれていたK君のことを回想する…。 #br 療養地のN海岸に来てから最初の満月の夜、病気のせいで眠れずに寝床を出た「私」は、 松樹の影を踏みながら誰もいない砂浜に歩み出て、漁船の艫に腰を下ろし、 煙草を吹かしながら1人で月光の海を眺めていた。 ふと砂浜に気配を感じた「私」は、3、40歩離れたところで奇妙な動きをしている人影に気づき観察した。 #br その人影は「私」に背を向けた格好だったが、何か落し物を探している風で、 砂浜を前に進んだり、立ち止まったり後退したりしながら下を見ているようだった。 「私」はその人が気づくようにシューベルトの「海辺にて」と「二重人格(ドッペルゲンゲル)」を口笛で吹いてみた。 #br 「私」は、その人がマッチを持っていないのだろうと考え、思いきって歩み寄って行くが、目の前に出来た影で、 その人も自分の影を踏んでいることが判り、探し物をしていないことに気づいた。 「私」が声をかけると彼はきまり悪そうに微笑していたが、それをきっかけに彼(K君)は、どうして自分の影を見ていたのか「私」に教えてくれた。 #br 月光で象られた自分の影をじっと凝視していると、徐々に生物の相が出現すると話すK君は、 その影が一尺か二尺ほど(約30-60センチ)の短いのがよく、揺れ動かしているうちに段々と自分自身の姿が見えてくると説明した。 そしてその不思議な瞬間には影の自分が人格を持ち始め、此方の自分は意識が遠くなり、月に昇っていくような感覚になるという。 #br その阿片のような感覚を知ると現実の世界が身に合わなくなるとK君は言った。 しかしながら月に行こうとしても、ジュール・ラフォルグの詩にあるイカロスのように何度も落っこちてしまうと苦笑いした。 その夜の出会いをきっかけに、「私」とK君は親しくなった。 #br 月が欠け始めると、K君は海岸に出ることはなかった。 影ほど不思議なものはないと言うK君は、影について熱心に考察し、 朝の海辺にも立って日の出に出帆する船の実体が逆光線で影絵のようになることを観察していた。 やがて健康を回復した「私」はその地を去ることになったが、K君の頬はこけ、病は徐々に進行しているようだった。 #br しかしK君と過ごした日々を振り返った「私」には、K君が自殺したとは思えなかった。 K君の死の原因が何かは誰にもわからないが、「私」はK君の溺死の報せを受けて驚いたと同時に、「K君はとうとう月の世界に行った」と思い、 影がK君を奪ったと直感した。K君が溺死した夜、ちょうど月齢15.2の満月だったことを「私」は暦で確認した。 #br 満月が南中する時刻の前後に海に入っていったと思われるK君の姿を「私」は想像する。 砂浜の影に表出された自分自身を見たK君の魂は月へと昇ってゆき、K君の形骸の身体の方は、 人格を持った影に導かれて無意識に海に歩み入り、高波によって海中に仆れていった。 #br もしもその瞬間、K君の魂がイカロスのように「墜落」して身体に戻っていれば、泳ぎのできるK君は溺れることはなかったはずだった。 干潮の夜11時56分の激浪に形骸の身を委ねたまま、K君の魂は月へ月へと飛翔し去っていった、と手紙の最後で「私」は「あなた」に書き綴った。 >''井伏鱒二'' 明治31年(1898)広島県生れ。本名、満寿二。 中学時代は画家を志したが、長兄のすすめで志望を文学に変え、大正6年(1917)早大予科に進む。 昭和4年(1929)『山椒魚』等で文壇に登場。昭和13年(1938)『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を、 昭和25年(1950)『本日休診』他により読売文学賞を、昭和41年(1966)には『黒い雨』で野間文芸賞を受けるなど、受賞多数。 昭和41年(1966)、文化勲章受章。 #br https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a8/から引用 >''山椒魚'' 井伏の代表的な短編作品。 成長しすぎて自分の棲家である岩屋から出られなくなってしまった山椒魚の悲嘆をユーモラスに描いた作品である。 自分の世界に引き籠もってしまった人物を表している。 #br 悲嘆にくれるあまり「悪党」となった山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込め、外に出られないようにした。 蛙は安全な窪みのなかに逃げ込んで虚勢を張り、2匹の生物は激しい口論を始める。 二匹のどちらも外に出られず、互いに反目しあったまま1年が過ぎ、2年が過ぎた。 蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散らす光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきてもいいと呼びかける。 しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。 お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ、と答える。 →許し #endregion #region(詩人) ''詩人'' >''中島敦'' 親戚に漢学者が多く、幼い頃から漢学の知識が豊富で、 支那古典をモデルとした『山月記』(昭17)や『李陵』(昭18)等を次々と発表し、注目を集めた。 >''中原中也'' 酒乱。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。 小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が風邪により病死したことで文学に目覚めた。 小林秀雄と三角関係みたいな状態になった。 #br 中也の詩は喪失感や裏側の悲しみを歌う。 >''立原道造'' 昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した詩人。 『優しき歌 II』「夢見たものは……」は届かない夢を歌っている。 #endregion #region(無頼派) ''無頼派'' //>''無頼派'' 戦後、既存の価値観に背く文学を描き、人気を集める。 太宰治、坂口安吾、織田作之助が中心になった。 >''坂口安吾'' 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した。 代表作は『堕落論』『桜の森の満開の下』 >''堕落論'' 欲望に生きること、欲望を求めることを唱える。 戦前は天皇陛下を戴く倫理的秩序があったが、戦後は立派な兵隊だった者が闇市を営むなど欲望に生きている。 倫理的に高かったためにみんな死んだ。戦後は生きる時代である。 //>''桜の森の満開の下'' >''太宰治'' 本名津島修治。1930(昭和5)年、東京帝国大学仏文科に入学。 1935年「逆行」が第1回芥川賞候補となり翌年『晩年』を刊行したが、 芥川賞の落選や同棲していた女性との心中未遂などにより精神の不安定を生じた。 1938年、山梨県御坂峠(みさかとうげ)の天下茶屋で執筆を再開。翌年、山梨県立都留高等女学校教師の石原美知子と結婚。 8ヶ月間の甲府での新婚生活の間「富嶽百景」「女生徒」などを執筆。 9月に東京の三鷹に転居した後もしばしば甲府を訪れ、戦中は甲府に疎開中に甲府空襲に遭遇した。 戦後三鷹に戻って「斜陽」「人間失格」など戦後文学を代表する作品を発表したが、1948年6月、山崎富栄と玉川上水に入水、 19日の39歳の誕生日に遺体が発見された。1953年10月、御坂峠に「富嶽百景」の一節「富士には月見草がよく似合ふ」を刻んだ文学碑が建てられた。 #br https://digital-archive.pref.yamanashi.jp/literary/823より引用 >''斜陽'' 太宰治の作品。 何かに頼らない生き方を考え、古い価値観に縛られない女を描く。 #endregion
#include(日本文学史・日本文学講義項目,notitle) #contents |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):''分類''|''国文学科選択必修A群&br;国語科教員(国文学科・中国語中国文化学科)選択必修/書道科教員選択&br;日本語教育選択''| |区分|[[国文学科]]科目| |履修形態|一般(人数過多の場合は抽選)| |履修条件|二年生以上| |単位数|2| |講師|[[久米依子]]| |学位等|学士(文学)| *概要 [#Gaiyou] |>|コース|区分|h |[[教職課程>教職コース/教職課程]]|国語科教員|選択必修| |~|書道科教員|選択| |>|[[日本語教育課程>日本語教育コース/日本語教育課程]]|選択| 明治・大正期の文学の展開について、代表的作家作品や文学思潮の紹介を通して理解を深める。 また、昭和初期までの文学史の流れを確認する。 #br 教科書なし。プリントを配る。 複数の課題と最終レポートが60%、授業内で示す課題の提出が40% #br この科目は文理学部(学士(文学))のディプロマポリシーDP2,3及びカリキュラムポリシーCP2,3に対応している。 |>|欠席の扱い|h |[[教育実習]]|必要書類を提出すると、欠席がなかったことになる。| |法定伝染病|~| |入院(長期間)|考慮| |就職活動|~| |法定伝染病以外の病気|欠席の連絡は不要(欠席扱い)| *講師の印象 [#Inshou] *令和八年度(2026年度) [#h81d5434] #style(class=submenuheader){{ **前期 [#x8576bd6] }} #style(class=submenu){{ |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):授業形態|対面授業| |日程/教室|月曜日 三限目/3206教室(三号館二階六番教室)| >''最終課題(追加)'' 以下の1~4にすべて答える。(引用字数の上限はなし。) + プリントの「[[たけくらべ>https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html]]」の少女・美登利、「[[にごりえ>https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/387_15293.html]]」の酌婦・お力について、 近代小説としてどのような特色のある描き方がされているか。 プリントに載せた2つの小説の本文を2つとも、20字以上引用して、 その場面がどういう場面であるかの説明もしながら、授業内容をふまえて回答せよ。 + 日本的な自然主義文学と漱石・鴎外(後期)の文学との大きな差はどこにあるか。 プリント掲載の漱石・鴎外(後期作品)のそれぞれの作品の一部を、作品名を明記して20字以上引用しながら説明せよ。 + 日本の「私小説」はどのような社会状況によって生まれたのか、 また大正期の代表的「私小説」作家たちは、どのような事態を描いて苦悩を表現したか。 授業で紹介した(プリントに掲載した)「大正期私小説の系譜」の作家を一人以上取り上げ、 プリントで示した具体的な行動を説明しながら回答せよ。 + 朔太郎の詩「死」は何をどのように表現していると考えられるか。プリント掲載の詩「死」の一部を引用しながら説明せよ。 #region(ヒント) ''ヒント'' + 前近代において色恋という概念はあったものの、恋愛という概念は稀薄だった。 しかし、美登利とお力は恋愛感情を持った人物である。(近代的) そして、売春婦である。(下層階級や賤職と見做される)故に不満を抱く。 + 日本的な自然主義文学は社会問題よりも私的問題を中心に描く。しかし、夏目漱石と森鴎外は違う。 夏目漱石の文明批評性について言及すると良し。 また、森鴎外の『最後の一句』と大逆事件との関係にも言及すると更に良し。 + 明治維新によって前近代的陋習が撤廃された。しかし、まだ家父長制などの因習が残っていた。 これらからの解放を私小説は目指した。 プリントに書かれたものにのみ言及すること。 |プリントで紹介された作家|プリントで逸話と一緒に紹介された作品|h |徳田秋聲|「黴」「假装人物」| |宇野浩二|「苦の世界」「軍港行進曲」「思ひ川」「枯れ木のある風景」| |葛西善藏|なし| //『子をつれて』『哀しき父』 |廣津和郎|なし| //『明るみへ』 + 萩原朔太郎は医者の家系に生まれ、医者になることを期待されていたが、なることが出来なかった。 その苦悩に言及すること。 #endregion ***第一講目の内容 [#fdc92c1c] ''★前近代から近代へ'' #br 前近代の特徴⋯身分制,移動の制限(上流階級も下層階級も土地に縛られる。) 日本では上からの改革で解消。 しかし、因習が残る。(例:家父長制→親の許しがなければ結婚できない。) ***第二講目の内容 [#n08a0053] #region(近代以前の文学) ''★近代以前の文学'' #br >''滝沢馬琴の&ruby(よみほん){読本};『南総里見八犬伝』'' https://www.fumikura.net/text/hakkenden.html ※伏姫という名前(人+犬)がその運命を暗示している。 -儒教思想の勧善懲悪 →仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌 -非現実的で荒唐無稽 →呪われた犬とか、八つの宝玉とか →死に際に長々しい台詞を言い切る。 -二人称的語り(誰かに言い聞かせているような形) →本は一人では読まず、周りの人に読み聞かせ、みんなで楽しむことがあったからか。 -思いを全て言う。 →例えば、謀を巡らせた悪者が何故か最後にネタバラシをする。 →近代文学における「内面」がない。日本の文学に「内面」が現れるには、開国から十年以上掛かった。 #endregion #region(啓蒙期の文学) ''★啓蒙期(幕末から明治初期)の文学'' #br >''戯作'' 具体的には、「うがち」「茶化し」「見立て」といった方法で人間を描く娯楽性の強いもの。 文章とは芸的に洗練されていた。 &ruby(かながきろぶん){仮名垣魯文};の『西洋道中膝栗毛』や『安愚楽鍋』が有名。 『西洋道中膝栗毛』⋯西洋について面白おかしく紹介する本。 『安愚楽鍋』⋯当時流行した牛鍋屋とそこの客について面白おかしく紹介する本。 >''続き物'' 新聞の発達に伴い、連作の読み物が現れた。 社会的事件を戯作の手法で書いたものが多く、続き物と呼ばれる。 >''翻訳小説'' 江戸以来の「戯作」に対して「小説」という文学を教えた。 &ruby(にわ){丹羽};&ruby(じゅんいちろう){純一郎};が翻訳した『&ruby(かりゅうしゅんわ){花柳春話};』が代表作品。 >''政治小説'' 政治意識が高い人々が書いた。 自由民権運動の一環としての性格を持つ為、民族の独立や民主政治の勝利を壮大なスケールでドラマチックに描く。 政治小説は、それまでの娯楽性が多分に含まれた小説と一線を画した。 例:『佳人之奇遇』 (主人公は米国が独立を達成したことや女性が政治について考えていることに感銘を受けた。) #endregion ***第三講目の内容 [#hf9eb7d0] ''★新体詩'' >''新体詩'' 明治後期に口語自由詩が現れる以前の文語定型詩。 多く七五調で、明治15年(1882)に外山正一らの「新体詩抄」に始まり、北村透谷・島崎藤村・土井晩翠どいばんすいなどの作によって発展、 やがて近代詩の確立とともに単に「詩」と呼ばれるようになった。 ↑長い和歌という感覚だった? 森鴎外が詩はもっと美しいものだとして反対⇨『於母影』 #br ''★小説'' >''坪内逍遥『小説神髄』'' 明治一八~一九年(一八八五‐八六)刊。小説の改良をめざし、その新指標を示した。 勧善懲悪主義など小説の功利的な見方を排し、人間の内面を描くことを第一義とし、 世態、人情、風俗などを写実的に表現することを主張。近代における最初の文学理論書。 →人情の描写は小説の大事な役目 >''[[二葉亭四迷『浮雲』>https://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1869_33656.html]]'' 明治20~22年(1887~1889)発表。 明治中期の功利主義や官僚制の中で挫折ざせつしていく青年の姿を、言文一致体で描いたもの。 近代写実小説の先駆とされる。 →大いに手本とされた。 //#hr //#br //#region(森鴎外) //''森鴎外'' //https://moriogai-kinenkan.jp/modules/contents/index.php?content_id=11 //森鴎外記念館 //本名森林太郎。1862(文久2)年、代々津和野藩の典医を務める森家の長男として生まれました。 //10歳のとき父と共に上京し、ドイツ語を学び東京大学医学部予科に11歳で入学。 //大学では医学を学び、卒業後陸軍軍医となりました。1884(明治17)年からは、軍の衛生学の調査及び研究のためドイツへ留学しました。 //帰国後は軍医としての仕事のかたわら、小説「舞姫」「雁」「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斉」などを執筆。 //医学・文学の評論や小説・戯曲等の翻訳、ヨーロッパ文学の紹介などを行い、明治を代表する知識人として活躍しました。 //1907 (明治40)年には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任、1916(大正5)年まで務めました。 //陸軍を退職した翌年からは、帝室博物館総長兼図書頭の職につき、上野の帝室博物館や秋には奈良の正倉院にも赴き、亡くなる直前まで仕事を続けました。 //千駄木団子坂上にあった「観潮楼」には家族とともに30年間、1922(大正11)年7月9日、60歳で亡くなるまで暮らしました。 //#endregion ***第四講目の内容 [#u148168a] #region(舞姫) ''舞姫'' >''『舞姫』に描かれているもの'' 社会法則に縛られる若者 自由な気持ちに蓋⇨社会問題を描く。 愛情の挫折 主人公は幸せになれない。(近代文学に多い。) >''浪漫主義'' ロマン(理想)を追求する文学の潮流 『舞姫』にも見られる。 >''浪漫主義の始まり'' 啓蒙誌『女学雑誌』⇨『文學界』 女学とは明治女学校(キリスト教系の学校)のこと。 『文學界』は浪漫主義運動の中核になった。 >''北村透谷'' 自由民権運動から文学へ転向し、浪漫主義の立場に立って硯友社の風俗小説などと対峙した。 //当時、Loveの翻訳語として「恋愛」がやっと定着しかけ、 『厭世詩家と女性』で恋愛こそが人生の秘密を解く鍵であると主張して、恋愛の思想を広めた。 #endregion #region(擬古典主義文学と硯友社) ''擬古典主義文学と硯友社'' >''擬古典主義'' 欧化の熱が冷め、国粋主義的風潮が現れた。 日本の古典を再評価する傾向が見られ、西鶴・近松の発見に繋がった。 >''尾崎紅葉'' 帝国大学国文科中退。1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。 『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。 特に『金色夜叉』は人気過ぎて連載を終わらせられなかった。(劇場化された。) >''『金色夜叉』'' 金の力よりも愛情を肯定した未完の大作 #hr (あらすじ)(出典:フリー百科事典『ウィキペディア』) 高等中学校の学生の間貫一と寄寓先の娘お宮は許婚どうし。皆からその未来を羨望されている。 宮は、かるた会で銀行頭取の息子である富山唯継に見染められ、美貌におごり、金に憧れ、求婚に応じて許婚を捨てる。 #br 貫一は悲憤して、静岡県の熱海海岸で 「一生を通して、一月十七日は僕の涙で必ず月を曇らして見せる。月が曇ったらば、貫一は何処かでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ」 と言葉を投げて宮と別れ、学業を廃して、行方をくらます。貫一は復讐を思い、死を思う。 強欲非道な高利貸である鰐淵の手代となり、残酷な商売に従事することで辛うじてその苦しさを忘れ、自ら金を積み、恨みを晴らそうとする。 宮は、富山と結婚し、金に目がくらむ一方で、胸の飢えは満たされない。 #br 4年後、2人は相見て、宮は、貫一の恨みを解くためにこの境遇を捨てようと思う。 貫一は、鰐淵が火事で死んだので仕事を受け継ぎ、宮の悔悟の手紙を手に取ろうともしない。 しかし、親友の荒尾譲介から、宮の心情を伝えられて貫一も心がかすかに動揺する。 暁の悪夢のなかで、悔悟の自殺をした宮に、赦すという言葉を与え、その唇を吸う。 #br 心はますます苦しくなるが、用事で塩原へ出向き、温泉宿の隣室で男女が心中しようとするのを救う。 その女は富山唯継の餌食になろうとしたものであり、貫一は宮の周辺の不幸な状況を知る。宮は前にも増して思いの丈を訴えた手紙を貫一の元に寄こす。 >''泉鏡花'' 金沢の生まれ。尾崎紅葉に師事した。 『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。 江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムが特徴。現世批判も見られる。 耽美派の源流。 #endregion ***第五講目の内容 [#yc946789] >''『文學界』'' キリスト教系浪漫主義 恋愛を重視する考えは、日本にはなかった。(色恋という概念はあった。) >''浪漫主義の流れ'' 森鴎外:ドイツで学ぶ。後に歴史小説や反自然主義小説へ 泉鏡花:幻想的な作品を書く。恐らく独自で浪漫主義のような文学を作り上げた。『文學界』の人。 北村透谷:『文學界』の人。 樋口一葉:女流作家 #region(樋口一葉) ''樋口一葉'' >''樋口一葉の経歴'' 公立本郷小学校に入学するが、幼少のためにほどなく退学し、半年後、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した。 引っ越しのため、私立青海学校に転校する。 高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。 母が女性に学業は不要だと考えていたからだという。⇨学歴がない。 父の計らいで中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。 #br 兄と父が死に女家長となる。学歴がないのも影響し、生活苦になった。 #br 「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃が小説を出版し、多額の原稿料を得たのを知った一葉は小説家への道を志す。 『東京朝日新聞』専属作家の半井桃水を訪ね、師事することになる。 しかし、二人の仲を噂する醜聞が「萩の舎」で広まり、中島歌子や伊東夏子に交際を反対され、桃水と絶交。 #br 生活苦打開のため1893年(明治26年)7月、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。 後に商売が苦しくなり、店を引き払った。 1895年(明治28年)から大きく評価され始めるが、翌年死去。 >''『たけくらべ』'' 1895年(明治28年)1月から翌1896年(明治29年)1月まで『文学界』に断続的に連載 >''『にごりえ』'' 銘酒屋の私娼お力が、落ちぶれて妻子とも別れた源七と死ぬ(無理心中)までを描いた作品 「にごりえ」とは、濁った川のこと #endregion #region(詩歌) ''詩歌'' >''正岡子規'' 結核を患っており、喀血して口の中が血で染まった己を、嘴の中が赤いホトトギスと重ね合わせて、子規と名乗った。 写生俳句を唱え、俳句の革新に努めた。 >''月並俳句'' 近世末期から明治24,25年頃までは、俳壇で月並俳句が流行っていた。 月並俳句は芭蕉崇拝に傾くだけで、言葉の遊戯に終わっていた。 正岡子規の写生俳句は近代のリアリズムに呼応。 #endregion ***第六講目の内容 [#de1556e9] #region(月並俳句とその革新) ''月並俳句とその革新'' 鶏頭の十四五本もありぬべし いくたびも雪の深さを尋ねけり(正岡子規) 生活や思いなどを詠む。(写実・写生) #br 正岡子規は俳句の改革を行った後、短歌(当時は和歌と呼ばれていた)の改革に着手した。 俳句と同じく写実を主張し、当時の和歌を詰まらないものと批判 また、万葉集を推奨した。(万葉集は実景を詠む歌が含まれていたため) ⇨『歌よみに与ふる書』 写実派短歌の始まり #br やがて賛同する人々が集まる。 正岡子規は根岸短歌会を結成 短歌雑誌『アララギ』(根岸短歌会の機関誌『&ruby(あしび){馬酔木};』『アカネ』を引き継ぐ)を刊行 #br >''石川啄木(『明星』派)'' 生没:1886年(明治19年)〜1912年(明治45年) 『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現し、満19歳で最初の詩集を刊行した。 1910年に刊行した初の歌集『一握の砂』は生活に即した新しい歌風を取り入れ、歌人として名声を得た。 #endregion #region(浪漫主義から自然主義へ) ''浪漫主義から自然主義へ'' >''島崎藤村'' 生没:1872年(明治5年)〜1943年 『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。 さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。 作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、 父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。 >''島崎藤村の生涯(概要)'' 神奈川県の横須賀市で庄屋を務める島崎家に四男として生まれた。 父の教育方針で、末っ子だったが教育を受けられた。 小学校卒業後、進学予備校で学び、明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。 明治学院ではキリスト教の洗礼を受けた。 #br 卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、二十歳の若さで明治女学校高等科英語科教師となる。 しかし、教え子を愛したが為に辞職する。 →女学校に通うお嬢様には許嫁が大抵いる。 1894年に女学校へ復職したが、透谷が自殺。翌年には再び辞職。 #br 1896年9月8日、東北学院の教師になる。 第一詩集『若菜集』を執筆、これを発表し、「晩藤時代」と称された。 やがて小説へ転身し、『破戒』を執筆した。 夢想しても、届かない。⇨自然主義 #br >''与謝野晶子(概要)'' 生没:1878年(明治11年)〜1942年(昭和17年) 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 著作には『みだれ髪』や『君死にたまふことなかれ』がある。 >''『みだれ髪』'' 与謝野鉄幹との激しい恋愛の過程で生み出された歌集。 恋愛は「はしたない」「親への反抗」とされた見方に逆らう内容。 #br 与謝野鉄幹との激しい恋愛⋯最終的に鉄幹の妻は身を退いて離婚し、鉄幹は晶子と結婚した。 #endregion ***第七講目の内容 [#acbd7a33] #region(自然主義文学) ''自然主義文学'' >''自然科学主義'' 自然科学のように、冷静に客観的に、人間や社会を見る考え。 フランスが発祥。 #br ⇨リアリズム(妄想やフィクションを排除)の徹底 やがて人間や社会を批判的に見るようになった。 浪漫主義と対立 自然主義的な『破戒』(島崎藤村)は文壇に大きな衝撃を与えたが、 それより前に『忘れえぬ人々』(国木田独歩)は誕生した。 日本では独自の文学として生成していったようである。 >''国木田独歩'' 浪漫主義文学の人 『忘れえぬ人々』は図らずとも自然主義文学の先駆けとなった。 『牛肉と馬鈴薯』から作風は次第に自然主義に移っていった。 >''『忘れえぬ人々』'' ただ見かけた黙々と働く人々に主人公は共感を抱く。 ⇨プロレタリア文学に繋がる社会問題意識 //社会の中の底辺への共感や共に生きているという感覚と孤独な自分 >''『破戒』'' 島崎藤村が1906(明治39)年に自費出版 自費出版で金に困るようになり、子供が病気になっても治療してやれず、死なせてしまった。(らしい) #br (あらすじ) 明治後期、信州小諸城下の被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。 その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎を慕うようになる。 丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。 やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。 その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。 そして丑松はアメリカのテキサスでの事業を持ちかけられ、ひとまず東京へと旅立つ。 >''田山花袋『蒲団』'' 島崎藤村の影響を受けて書かれた。 作者の実話を元にした作品→作家自身の告白ではないか? /////ここから日本の小説は不思議な #br (あらすじ:[[フリー百科事典『ウィキペディア』>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E5%9B%A3_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)]]より引用) 34歳くらいで、妻と3人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、 横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。 始めは気の進まなかった時雄であったが、 芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。 時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。 時雄は監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。 だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。 時雄は芳子の居間であった2階の部屋に上がり、机の引出しをあけ、古い油の染みたリボンを取って匂いをかぎ、 夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いをかぎ、 性欲と悲哀と絶望とにたちまち胸をおそわれ…芳子が常に用いていた蒲団を敷き、夜着をかけ、 冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣く。 ⇨情けなさや性を露悪的なまでに描き出した内容が大きな反響を巻き起こした。 『破戒』などでは書かれなかった人間の中の嫌なところを余さず描く。 これを真似る作家(島崎藤村など)が現れた。 #endregion ***第八講目の内容 [#ub56db6e] 『蒲団』 ⇨劣情を描く。これを機に、自然主義文学についての評論が多く現れた。 #region(反自然主義文学) ''反自然主義文学'' >''島崎藤村『春』'' 自伝的作品(作者の実体験が反映されているように見える。赤裸々な告白か) 親孝行(重要視されている道徳)よりも自分の人生を選んだ。 以降、日本の自然主義は社会問題よりも私的問題を中心に描くようになる。 本来は社会問題を描くことが第一だった。 -理由 --社会問題をリアルに描くというのは大変 --個人の内面の方が書きやすい。 --社会問題を書くことへの問題視(内務省による制限:伏せ字や発行禁止)→自粛 #br また、フィクションが入っているにも関わらず、作者の実体験が反映されていると読者に思わせた。 その結果、日本の小説は作者の実体験として読まれることが多くなった。 ⇨私小説へ(まだ私小説ではないが、いずれ私小説と呼ばれる。) //教科書によっては、その読み方しか載せていないことも。 |浪漫主義|自然主義|h |理想が実現しない苦しみ。|無理想・無解決(淡々と終わる。)| //>''森鴎外の復帰'' //明治四十年代から小説を再び書き始める。 //森鴎外は内面を描く自然主義文学を苦々しく思っており、また、浪漫主義にも ///陸軍軍医総監になった。 >''明治四十年代'' 明治天皇崩御への危機感と大正天皇が病弱なので不逞の輩が騒ぐのではという恐れがあった。 森鴎外が小説を再び書き始めた。 >''大逆事件'' 天皇暗殺計画を立てたとして、十四人に死刑判決が下った事件 実際に暗殺計画はあったものの、妄想的であった。 また、逮捕(そして処刑)された人の中には、宿を貸した程度の関係性の、計画とは関係ない人も含まれていた。 森鴎外は弁護人と知り合いだったので、逐一情報を仕入れられた。 >''『かのように』(森鴎外)'' 義務や道徳は実際にはないが、危険が生じるので、あるかのように振る舞う。 理想もノンフィクションもない。浪漫主義でも自然主義でもない。 ⇨反自然主義文学 森鴎外は浪漫主義から反自然主義文学へ、更に歴史小説へ行った。現実を書かなくなった。 >''『最後の一句』(森鴎外)'' 「お上に間違いはない」→大逆事件への皮肉? #endregion ***第九講目の内容 [#m76e3eca] #region(夏目漱石) ''夏目漱石'' 夏目漱石の小説は社会批判の更に奥にある、文明批評性を持つ。 >''夏目漱石の経歴'' -1867年(慶応3年) 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父の夏目小兵衛直克、母の千枝の五男として生まれる。 生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出された。しかし、姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。 -1868年(明治元年) 塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。 -1874年(明治7年) 養父の昌之助と養母のやすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。 -1887年(明治20年) 長兄と次兄が共に肺病のため死去。建築から文学に志望変更。 -1888年(明治21年) 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。 第一高等中学校予科を卒業。英文学専攻を決意し本科一部に入学。 -1890年(明治23年) 第一高等中学校本科を卒業。 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。 -1892年(明治25年) 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。 -1893年(明治26年) 帝国大学卒業、大学院に入学。 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。(ラフカディオ・ハーンの後任) -1896年(明治29年) 熊本県の第五高等学校講師となる。 中根鏡子と結婚。 教授となる。 -1900年(明治33年) イギリスに留学。 本を買うために食費を削った為か、翌年頃から精神衰弱になる。 -1903年(明治36年) イギリス留学から帰国。 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。 -1907年(明治40年) 『野分』を『ホトトギス』に発表。 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。 これは引きずった精神衰弱による体調不良を慮ったためか。 -1916年(大正5年) 胃潰瘍により死去。 >''『吾輩は猫である』'' 『ホトトギス』で発表された。 -内容 中学の英語教師&ruby(ちんのくしゃみ){珍野苦沙弥};の家に飼われる猫が、 主人や家族、あるいはそこに集まる高等遊民たちの言動を観察・記録して、 人間の愚劣さや滑稽さ、醜悪さを痛烈に批判し、嘲笑する。 >''『それから』'' 最高傑作と呼ばれることもある作品 内容は『三四郎』っぽさがある。 社会制度に縛られて自由な恋愛が出来ないことを訴える。 //代助が破滅する終わり方を迎える。 代助は近代的な人間であったが、親などから見れば、何をするか分からない人間であった。 -内容 定職に就かず、毎月1回、本家にもらいに行く金で裕福な生活を送る長井代助が、 友人平岡常次郎の妻である三千代と共に生きる決意をするまでを描く。 #endregion ***第十講目の内容 [#w58acbf1] #region(女性と文学) ''女性と文学'' >''平塚らいてう'' 女子大(当時は専門学校扱い)を出た後、婦人参政権など、女性の権利獲得に奔走した。 栃木県塩原で好きでもない男と心中未遂事件を起こす(塩原事件)。 >''『青鞜』'' 青鞜社が発行した女性による婦人月刊誌。 平塚らいてう、伊藤野枝が参加。 青鞜メンバーの神近市子が野枝と大杉を巡って大杉栄刺傷事件を起こすなどで廃刊となる。 #endregion ***第十一講目の内容 [#s927315c] |~白樺派|道徳的| |~耽美派|反道徳的| #region(反自然主義:白樺派) ''反自然主義:白樺派'' 反自然主義ならば私小説であるという訳ではない。 白樺派の小説は私小説に分類しない方が良い。 >''白樺派'' 1910年(明治43年)創刊の文学同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮を 共有していたと考えられる作家たちのこと。 自然主義に対抗するものと考えられる。人道主義的な作風。 >''志賀直哉'' 心境小説を書く。 代表作は『暗夜行路』『和解』『城の崎にて』『小僧の神様』 >''有島武郎'' 白樺派の一人。大正天皇の御学友。 親の教育方針でインターナショナルスクールに入れられる。 札幌農学校卒業後、父からニセコに農園を貰うが、留学に行った。 #br 農場を小作人に解放(無償譲渡、小作人による共同経営への移行)した。 社会主義的な活動ではないかと国から睨まれた。 #br 婦人公論の記者の人妻と恋愛関係になったが為に、旦那から別れなければ妻を姦通罪で訴えると脅され、心中した。 //文壇へ衝撃が走った #br 代表作は『カインの末裔』(小作人が題材。カインはアダムとイヴの子であり、原始的な存在の象徴) >''[[カインの末裔>https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/204_19524.html]]'' 一部分だけだが、小作人の厳しい人生が描かれる。 #br 北海道の松川農場にやってきた粗暴で無知な農夫である主人公の仁右衛門は、 問題を度々起こし、周囲からの助けも得られず、小作料を払えなかったことで追い出される。 #br 旧約聖書の「カイン」は、嫉妬から弟アベルを殺害し、神によって土地を追われて放浪する宿命を背負った人物である。 この小説における仁右衛門もまた、野蛮で追放された存在として描かれている。 >''武者小路実篤'' 代表作は三角関係を描いた『友情』。志賀直哉との関係が元になったか。 「新しき村」を創設(実篤は途中で抜けた)。 #endregion #region(反自然主義:耽美派) ''反自然主義:耽美派'' >''耽美派'' 道徳や功利性を捨て、美の享受と表現に最高の価値を置く思潮の文学流派 浪漫主義や感覚的官能美を追求 →理想的状況に溺れる。 //>''永井荷風'' //谷崎潤一郎に影響を与える。 >''谷崎潤一郎'' 発表した『刺青』を翌年永井荷風に絶賛され華々しくデビューした。 初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズム的な作品について語られることが少なくない。 女性を上にする小説をよく書く。 #br 細君譲渡事件を起こした。 >''刺青'' 谷崎潤一郎が思い描く江戸時代が舞台 #br 美しい肌に美しい力作の墨を入れたいという願いを持つ刺青師が主人公 店に着た女が理想的な肌を持っていたので、眠り薬で眠らせて墨を入れた。 女は怒るどころか、それを絶賛した。 >''痴人の愛'' まだ世の中を何も知らない年頃の娘を手元に引き取って、妻としてはずかしくないほどの教育と作法を身につけさせてやり、 いい時期におたがいが好きあっていたら夫婦になるという夢を持つ河合譲治が、 引き取った娘ナオミの肉体的な魅力に抵抗が出来なくなり、遂に全面降伏をする。 #endregion ***第十二講目の内容 [#zeeb9a1b] #region(芥川龍之介) ''芥川龍之介'' 芸術至上主義派とも呼ばれる。 幼い頃に母と別れた寂しさが文学に繋がったか。 >''略歴'' -1892年(明治25年) 東京市京橋区(現在の東京都中央区明石町)に生まれる。 辰年・辰の月・辰の日・辰の刻に生まれたことから「龍之介」と名付けられた。 生後まもなく母が精神を病んだため、母の実家である芥川家に引き取られ、伯母のフキから手厚い教育を受けて育つ。 芥川家は代々徳川家の御奥坊主を勤めた家で、礼儀に厳しい反面、遊芸に親しむ気風があった。 -1910年〜1913年(明治43年〜大正2年) 東京府立第三中学校を卒業し、第一高等学校一部乙(文科)へ入学。成績は昔から優秀だった。 その後、東京帝国大学英吉利文学科に進む。 -1915年〜1916年(大正4年〜大正5年) 第4次『新思潮』に発表した『鼻』が漱石に大絶賛され、一躍文壇の寵児となった。 -1918年〜1920年(大正7年〜大正9年) 海軍機関学校の英語教官として働く。私生活では塚本文子と結婚した。 その後、教職を辞めて大阪毎日新聞社に入社した。 -1921年〜1927年(大正10年〜昭和2年) 新聞社の視察で支那へ渡航するが、現地で結核や神経衰弱を患い、心身の健康を大きく崩して帰国。 -1927年(昭和2年) 義兄の西川豊の家が火災に遭う。放火の疑いを掛けられた西川が借金を残して自殺。 その後始末に奔走し、衰弱が進む。 7月24日未明、田端の自宅で睡眠薬を大量に飲んで自殺した。 #br 『鼻』も『芋粥』も願いが叶ったことで、悪い結果になった。 『或る阿呆の一生』は芥川の遺書的小説 #endregion #region(萩原朔太郎) ''萩原朔太郎'' 金持ちの医者の長男。 医者業を継ぐのを期待されていたが、落第などで高等学校以上へ進めなかった。 詩が心の支えであった。 #br 近代抒情詩(口語自由詩)を完成した。 上京後、家庭が崩壊する。 >''悲しい月夜'' ぬすつと犬めが、 くさつた波止場の月に吠えてゐる。 たましひが耳をすますと、 陰氣くさい聲をして、 黄いろい娘たちが合唱してゐる、 合唱してゐる。 波止場のくらい石垣で。 #br いつも、 なぜおれはこれなんだ、 犬よ、 靑白いふしあはせの犬よ。 ぬすつと犬 ⋯野良犬。帰るところがない。 くさつた波止場 ⋯波止場としての機能を果たせない。船は来ず、何処にも行けない。 月に吠えてゐる ⋯何処かへ行きたがっている? なぜおれはこれなんだ ⋯己への劣等感 #br >''地面の底の病気の顔'' 地面の底に顔があらはれ、 さみしい病人の顔があらはれ。 #br 地面の底のくらやみに、 うらうら草の莖が萌えそめ、 鼠の巣が萌えそめ、 巣にこんがらかつてゐる、 かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、 冬至のころの、 さびしい病氣の地面から、 ほそい靑竹の根が生えそめ、 生えそめ、 それがじつにあはれふかくみえ、 けぶれるごとくに視え、 じつに、じつに、あはれふかげに視え。 地面の底のくらやみに、 さみしい病人の顔があらはれ。 >''死'' みつめる&ruby(つち){土地};の底から 奇妙きてれつの手がでる、 足がでる、 くびがでしやばる、 諸君、 こいつはいつたい、 なんといふ鵞鳥だい。 みつめる土地の底から、 馬鹿づらをして、 手がでる、 足がでる、 くびがでしやばる。 『地面の底の病気の顔』『死』→ちゃんとした姿で地面から出られない。 #br >''猫'' まつくろけの猫が二疋、 なやましいよるの家根のうへで、 ぴんとたてた尻尾のさきから、 糸のやうな&ruby(、、、、){みかづき};がかすんでゐる。 『おわあ、こんばんは』 『おわあ、こんばんは』 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』 『おわああ、ここの家の主人は病気です』 猫が『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』と鳴くのは生殖行為(或いは雌の取り合い)をする時である。 家の外にいる生殖できる存在(生物として正しい姿)と家の中にいる病気の存在(自分)の対比 #endregion #region(私小説) ''私小説'' 私小説が日本の小説のあるべき姿と見做されることが多い。なので、みんな寄って集って自然主義に対抗する。 >''德田秋聲'' 石川県金沢市生まれ。 硯友社総帥の尾崎紅葉の門下であったが、現実社会に目を向け『新世帯』『足迹』『黴』『爛』『あらくれ』などを発表。 他のどの作家よりも自然主義的と言われる。 妻が脳溢血で急死すると、時折出入りしていた作家志望の山田順子と三十歳差の結婚をした。 順子は文壇的野望で接近し、秋聲を虜にした。 しかし順子は多情で、男から男へ渡り歩き、その都度、秋聲は跡を追う。→ 『仮装人物』 >''宇野浩二'' 宇野浩二は生まれつき内気で、女性的性格であった。 その為か、ヒステリックな女を好む。 女性との関係を元にした『苦の世界』『軍港行進曲』『思ひ川』を書く。 妻と愛人との嫉妬の板挟みで苦しみ入院。 幸いにも快癒して『枯木のある風景』を書き、文壇に復帰。 //葛西吉藏 //廣津和郞 #endregion #region(探偵小説) ''探偵小説'' 大衆小説として扱われる。 >''江戸川乱歩'' 江戸川乱歩なしに日本の探偵小説は語れない。 犯行の中に人情を描く。 小説には、乱歩の様々な職業に就いた経験が活かされている。 #endregion ***第十三講目の内容 [#de0441b9] #region(プロレタリア文学) ''プロレタリア文学'' 一時期は、プロレタリア文学に非ずんば文学に非ずというぐらい流行した。 また、プロレタリア文学は女流作家の活躍を促した。 #br 社会を「労働者階級<市民階級<資本家階級」と捉え、労働者の解放を目指す。 →資本家の打倒を主張。闘争的。 #br 当初、文学は取り締まりの対象ではなかったが、のちに対象になった。(それでも人気だった。) 小林多喜二の死などによりプロレタリア文学は衰退していった。 //#br //プロレタリア文学は今まで文学を担ってきた非労働者階級への //労働者こそ尊重されなくてはならない。 >''小林多喜二'' 小説家。商業学校時代から創作を始め、卒業後は北海道拓殖銀行に勤務した。 志賀直哉の影響下プロレタリア文学へ進み、昭和2(1927)年労農芸術家連盟に加入し、 翌年、三・一五事件を題材にした『一九二八年三月十五日』を全日本無産者芸術連盟の機関誌『戦旗』に発表して注目を浴びた。 次いで4(1929)年には『蟹工船』を発表し、左翼文学の代表となるも、銀行を解雇され翌年上京した。 以降、日本プロレタリア作家同盟役員、日本共産党員として活躍する中、8(1933)年特高警察に逮捕され拷問、虐殺された。 逮捕された当日に裁判なしで殺されたのである。 心臓麻痺という扱いであった。 医者も警察を恐れてしっかり確認しなかったが、明らかな拷問の痕(痣まみれで、指が折られ、爪も剥がされていた。)が残っていた。 #br https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6232より引用(一部加筆) >''一九二八年三月十五日'' 多喜二にとって事実上の文壇デビュー作。 1928年3月15日、日本共産党の党員が大量検挙された三・一五事件が発生した際の北海道小樽市の様子を描いている。 雑誌『戦旗』の1928年11月号と12月号に掲載された。 多喜二はこの小説によって、官憲による弾圧事件の告発を試みた。 #br 世界各国に翻訳されて、日本のプロレタリア文学に小林多喜二ありというぐらいに広がった。 >''蟹工船'' 文芸誌『戦旗』で1929年(昭和4年)に発表された小林多喜二の小説である。 発行禁止になったが、同志が隠れて売り捌き、数万冊を流通させた。 いくつかの言語に翻訳されて出版されている。 #endregion #region(新感覚派) ''新感覚派'' プロレタリア文学の衰退後、理知的な深みを評価され登場した。 //都市生活と機械文明 西欧の前衛芸術を背景とする。 >''横光利一'' 大正12(1923)年菊池寛創刊の『文芸春秋』に参加する。同年『日輪』『蠅』で文壇に登場。 13年、川端康成らと『文芸時代』を創刊し、新感覚派の文学運動を展開した。 14年、プロレタリア文学を仮想敵とした評論『感覚活動』を書き、後に「形式主義文学論争」を交わす。 最初の長編『上海』(1928-31)以降、心理主義の手法を採り入れ、『機械』(1930)、『時間』(1931)等を著した。 昭和10(1935)年「純文学にして通俗小説」を提唱した『純粋小説論』が文壇に大きな反響を呼ぶ。 11年から欧州に半年間滞在し、その体験をもとに未完の大作『旅愁』(1937-46)を執筆した。 #br https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6087から引用(句読点等改変) >''機械'' あるネームプレート製作所で働く「私」の心理を通して、 そこで起った作業員同士の疑心暗鬼と諍いから重大な結末に至るまでの経過を独白する物語。 #br 主人公は他人の言うままに行動し、状況に巻き込まれていく。 読者は主人公の振る舞いを愚かに思いつつ、自分や都市住民の生活に重ねてしまう。 >''新心理主義'' 「意識の流れ」や「飛躍・奇妙なテンポ」が特徴。 ある状況・関係性の中で歯車(&ruby(メカニズム){機械};)のように動いてしまう人間、 主体性・個性の揺らぎ、相対的・不定性としての人間を描く。(機械化・人工化社会) >''川端康成'' 大正13(1924)年東京帝大卒業後、横光利一らと『文芸時代』を創刊し、新感覚派と呼ばれた文学運動を起こした。 初期の代表作『伊豆の踊子』(1926)やモダニズムの『浅草紅団』(1929-30)の後、 作風の転換を図り、新心理主義の『水晶幻想』(1931)、虚無的な作風の『禽獣』(1933)を経て、 近代叙情文学の代表作『雪国』(1935-47)に到達する。 戦後にも『千羽鶴』(1949-1951)、『山の音』(1949-1954)、『名人』(1951-52)等の名作を残す。 昭和23(1948)年日本ペンクラブ会長に就任、36(1961)年文化勲章、43(1968)年ノーベル文学賞を受賞。 47(1972)年ガス自殺し、世間に大きな衝撃を与えた。 三島由紀夫の師匠。 #br https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6086より引用(一部加筆) >''心中'' あらすじ #hr 彼女(妻)を嫌って2年前に逃げた夫から手紙が来た。 遠い土地からのその手紙には「子供にゴム毬をつかせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を叩くのだ」とある。 彼女は娘からゴム毬を取り上げた。違う差出局の消印で、再び夫からの第二の手紙が来る。 今度は「子供を靴で学校を通わせるな。音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を踏むのだ」とある。 彼女は音の出ないフェルト草履[注釈 2]を娘に与えるが、娘は泣いて学校に行かなくなる。 #br それから1か月後、また夫から第三の手紙が来るが、彼女はその文字から夫の急な老いを感じた。 「子供に瀬戸物の茶碗で飯を食わせるな。その音が聞えて来るのだ。その音が俺の心臓を破るのだ」 という命令に従い、彼女は3歳の幼児に食べさせるように自分の箸で娘に飯を与える。 3歳児だった娘の隣に夫がいて3人楽しく暮していた頃を彼女が思い出していると、突然娘が茶箪笥から自分の茶碗を出してきた。 彼女はすぐさまそれを奪い取って庭石に投げた。「夫の心臓が破れる音」。 #br すると突然彼女は眉毛を逆立て、自分の茶碗も石に投げつける。 自分の茶碗の音は夫の心臓が破れる音ではないのか? と思った彼女は、食卓を庭に突き飛ばす。 さらに、壁に全身をぶつけ拳で叩いたり、襖を槍のように破り抜けたりして、この音は? と試す。 娘が泣きながら「かあさん、かあさん、かあさん」と駆け寄ってくると、彼女は娘の頬をぴしゃりと平手打ちする。 「おお、この音を聞け」。 #br その音に呼応する木魂のように、新たな遠い地からの夫の手紙が来た。 そこには「お前達は一切の音を立てるな。戸障子の明け閉めもするな。呼吸もするな。お前達の家の時計も音を立ててはならぬ」とある。 彼女はその手紙を読んで「お前達、お前達、お前達よ」と呟きながらぽろぽろと涙を落とした。 #br それから、母と娘は一切の音を立てなくなった。そして不思議なことに、死んだ2人と枕を並べて夫も死んでいた。 >''雪国'' 美しい雪国とそこの人々を描く。 日本的情緒と評価されるがモダニズムも含まれる。 #endregion ***第十四講目の内容 [#u1cf9b19] #region(新興芸術派) ''新興芸術派'' 大正末期から昭和初頭にかけて新感覚派の跡を受け継いで、 反マルクス主義(反プロレタリア文学)の立場から次第に台頭していった。 >''小林秀雄'' 昭和初期、批評も文学作品たり得ると証明した。 >''堀辰雄'' 私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、 意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。 芥川龍之介に師事したが、芥川が死んでしまったので独学でフランス文学を学んだ。 著作に『風立ちぬ』がある。 『風立ちぬ』に登場する節子のモデルは堀の婚約者であった矢野綾子である。綾子は結核で死んだ。 また、堀自身も結核で死ぬことになった。 >''梶井基次郎'' //兵庫県伊丹市で療養生活を送る。 明治34年(1901)大阪市西区土佐堀で生まれる。三高在学中から小説を書き始める。 東大英文科在学中の大正14年(1925)、中谷孝雄・外村茂らと共に同人誌「青空」を創刊、『檸檬』『城のある町にて』などを発表。 昭和元年(1926)、少年時代からの肺結核療養の為、伊豆湯ヶ島へ。 同地にいた川端康成を知る。作品集『伊豆の踊子』の校正も手伝っている。 その後、『冬の日』(肺を病む者の自意識を書いた作品)、『冬の蠅』などを発表したが、病状は進み東大は中退。 その後、両親のいる大阪で療養生活 に入り、兄のいる伊丹市では1年あまり療養した。 昭和6年(1931)作品集『檸檬』を刊行。翌昭和7年(1932)31歳の時、『のんきな患者』を「中央公論」に発表し、 ようやく周りから評価を受け始めるものの、その数ヶ月後には容態が悪化、死去。命日には檸檬忌が営まれている。 『Kの昇天』は美しいイメージと死を伴っている。 #br https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a17/を参考 >''Kの昇天'' 副題付きでは『Kの昇天――或はKの溺死』となる。 -[[あらすじ>https://ja.wikipedia.org/wiki/K%E3%81%AE%E6%98%87%E5%A4%A9#%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98]] N海岸で転地療養していた「私」は、ある満月の夜に砂浜でK君と知り合ったのを機に、 1か月ほどの期間、お互いの旅館を訪ねたり一緒に散歩したりと親しく交流した。 やがて「私」の方は健康を取戻し一足先にその地を去ったが、病気が進んでいる様子のK君の方はまだ残留していた。 #br 「私」はK君の知人から、N海岸でK君が溺死したという報せを受け取った。 手紙の主の「あなた」はK君の死が過失なのか自殺かが判らず、もし自殺なら原因は何かと思い悩んでいるようだった。 「私」は面識のない「あなた」へ、K君の死の謎について思い当たることを書き送りながら、「影」に憑かれていたK君のことを回想する…。 #br 療養地のN海岸に来てから最初の満月の夜、病気のせいで眠れずに寝床を出た「私」は、 松樹の影を踏みながら誰もいない砂浜に歩み出て、漁船の艫に腰を下ろし、 煙草を吹かしながら1人で月光の海を眺めていた。 ふと砂浜に気配を感じた「私」は、3、40歩離れたところで奇妙な動きをしている人影に気づき観察した。 #br その人影は「私」に背を向けた格好だったが、何か落し物を探している風で、 砂浜を前に進んだり、立ち止まったり後退したりしながら下を見ているようだった。 「私」はその人が気づくようにシューベルトの「海辺にて」と「二重人格(ドッペルゲンゲル)」を口笛で吹いてみた。 #br 「私」は、その人がマッチを持っていないのだろうと考え、思いきって歩み寄って行くが、目の前に出来た影で、 その人も自分の影を踏んでいることが判り、探し物をしていないことに気づいた。 「私」が声をかけると彼はきまり悪そうに微笑していたが、それをきっかけに彼(K君)は、どうして自分の影を見ていたのか「私」に教えてくれた。 #br 月光で象られた自分の影をじっと凝視していると、徐々に生物の相が出現すると話すK君は、 その影が一尺か二尺ほど(約30-60センチ)の短いのがよく、揺れ動かしているうちに段々と自分自身の姿が見えてくると説明した。 そしてその不思議な瞬間には影の自分が人格を持ち始め、此方の自分は意識が遠くなり、月に昇っていくような感覚になるという。 #br その阿片のような感覚を知ると現実の世界が身に合わなくなるとK君は言った。 しかしながら月に行こうとしても、ジュール・ラフォルグの詩にあるイカロスのように何度も落っこちてしまうと苦笑いした。 その夜の出会いをきっかけに、「私」とK君は親しくなった。 #br 月が欠け始めると、K君は海岸に出ることはなかった。 影ほど不思議なものはないと言うK君は、影について熱心に考察し、 朝の海辺にも立って日の出に出帆する船の実体が逆光線で影絵のようになることを観察していた。 やがて健康を回復した「私」はその地を去ることになったが、K君の頬はこけ、病は徐々に進行しているようだった。 #br しかしK君と過ごした日々を振り返った「私」には、K君が自殺したとは思えなかった。 K君の死の原因が何かは誰にもわからないが、「私」はK君の溺死の報せを受けて驚いたと同時に、「K君はとうとう月の世界に行った」と思い、 影がK君を奪ったと直感した。K君が溺死した夜、ちょうど月齢15.2の満月だったことを「私」は暦で確認した。 #br 満月が南中する時刻の前後に海に入っていったと思われるK君の姿を「私」は想像する。 砂浜の影に表出された自分自身を見たK君の魂は月へと昇ってゆき、K君の形骸の身体の方は、 人格を持った影に導かれて無意識に海に歩み入り、高波によって海中に仆れていった。 #br もしもその瞬間、K君の魂がイカロスのように「墜落」して身体に戻っていれば、泳ぎのできるK君は溺れることはなかったはずだった。 干潮の夜11時56分の激浪に形骸の身を委ねたまま、K君の魂は月へ月へと飛翔し去っていった、と手紙の最後で「私」は「あなた」に書き綴った。 >''井伏鱒二'' 明治31年(1898)広島県生れ。本名、満寿二。 中学時代は画家を志したが、長兄のすすめで志望を文学に変え、大正6年(1917)早大予科に進む。 昭和4年(1929)『山椒魚』等で文壇に登場。昭和13年(1938)『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を、 昭和25年(1950)『本日休診』他により読売文学賞を、昭和41年(1966)には『黒い雨』で野間文芸賞を受けるなど、受賞多数。 昭和41年(1966)、文化勲章受章。 #br https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a8/から引用 >''山椒魚'' 井伏の代表的な短編作品。 成長しすぎて自分の棲家である岩屋から出られなくなってしまった山椒魚の悲嘆をユーモラスに描いた作品である。 自分の世界に引き籠もってしまった人物を表している。 #br 悲嘆にくれるあまり「悪党」となった山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込め、外に出られないようにした。 蛙は安全な窪みのなかに逃げ込んで虚勢を張り、2匹の生物は激しい口論を始める。 二匹のどちらも外に出られず、互いに反目しあったまま1年が過ぎ、2年が過ぎた。 蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散らす光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきてもいいと呼びかける。 しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。 お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ、と答える。 →許し #endregion #region(詩人) ''詩人'' >''中島敦'' 親戚に漢学者が多く、幼い頃から漢学の知識が豊富で、 支那古典をモデルとした『山月記』(昭17)や『李陵』(昭18)等を次々と発表し、注目を集めた。 >''中原中也'' 酒乱。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。 小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が風邪により病死したことで文学に目覚めた。 小林秀雄と三角関係みたいな状態になった。 #br 中也の詩は喪失感や裏側の悲しみを歌う。 >''立原道造'' 昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した詩人。 『優しき歌 II』「夢見たものは……」は届かない夢を歌っている。 #endregion #region(無頼派) ''無頼派'' //>''無頼派'' 戦後、既存の価値観に背く文学を描き、人気を集める。 太宰治、坂口安吾、織田作之助が中心になった。 >''坂口安吾'' 第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した。 代表作は『堕落論』『桜の森の満開の下』 >''堕落論'' 欲望に生きること、欲望を求めることを唱える。 戦前は天皇陛下を戴く倫理的秩序があったが、戦後は立派な兵隊だった者が闇市を営むなど欲望に生きている。 倫理的に高かったためにみんな死んだ。戦後は生きる時代である。 //>''桜の森の満開の下'' >''太宰治'' 本名津島修治。1930(昭和5)年、東京帝国大学仏文科に入学。 1935年「逆行」が第1回芥川賞候補となり翌年『晩年』を刊行したが、 芥川賞の落選や同棲していた女性との心中未遂などにより精神の不安定を生じた。 1938年、山梨県御坂峠(みさかとうげ)の天下茶屋で執筆を再開。翌年、山梨県立都留高等女学校教師の石原美知子と結婚。 8ヶ月間の甲府での新婚生活の間「富嶽百景」「女生徒」などを執筆。 9月に東京の三鷹に転居した後もしばしば甲府を訪れ、戦中は甲府に疎開中に甲府空襲に遭遇した。 戦後三鷹に戻って「斜陽」「人間失格」など戦後文学を代表する作品を発表したが、1948年6月、山崎富栄と玉川上水に入水、 19日の39歳の誕生日に遺体が発見された。1953年10月、御坂峠に「富嶽百景」の一節「富士には月見草がよく似合ふ」を刻んだ文学碑が建てられた。 #br https://digital-archive.pref.yamanashi.jp/literary/823より引用 >''斜陽'' 太宰治の作品。 何かに頼らない生き方を考え、古い価値観に縛られない女を描く。 #endregion ***第十五講目の内容 [#ue6d9650] &color(Red){''対面授業なし''(最終課題のための時間)}; >''小説を読む課題(最終課題)'' 以下の作品の中から1作品を読み、授業で指摘した、作家本人や、属する主義・派の特色がどのように現れているか、指摘する。 特色は、テーマ、表現、登場人物像、ストーリー、作品の発するメッセージなどから考えることができる。 また、作品の終わり方(結末)についてどのように主義にかなっていると考えられるか書く。 #br そして、結末部以外で最も印象に残った部分を「 」で引用し、どのように印象に残ったかを述べる。 引用は全部で30字以上50字以下、「 」で括り明示すること。 章に分かれている小説の場合、引用文の章も記すこと。 全文引用しなくても、「〇〇~〇〇」という、「~」を使った引用でも可だが、その場合も30字以上は記すこと。 |~提出方法|LMSのテキスト情報の入力| |~字数|200字以上| |~提出期限|7月31日(金)23時| -作品 ネットの「青空文庫」で読める。「青空文庫」以外の書籍で読んだ場合は、本の名、出版社、文庫なら文庫名、出版年を明記すること。 --樋口一葉「[[十三夜>https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/386_15291.html]]」(明治 28) --泉鏡花「[[小春の狐>https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3551_12122.html]]」(大正13) --夏目漱石「[[二百十日>https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/751_14958.html]]」(明治 39) --森鴎外「[[堺事件>https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html]]」(大正 3) --田村俊子「[[木乃伊の口紅>https://www.aozora.gr.jp/cards/000655/files/5006_24301.html]]」(大正2) --有島武郎「[[生れ出づる悩み>https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/1111_20600.html]]」(大正7) --島崎藤村「[[嵐>https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1511_20470.html]]」(大正15) --谷崎潤一郎「[[幇間>https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56644_58930.html]]」(明治44) }} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,20,)