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> 漢文学2(袴田光康)
漢文学2(袴田光康)
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***第十五講目の内容 [#yd139e2f] }}
#include(漢文学項目,notitle) #contents |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):''分類''|''国文学科選択必修(A群)/国語科教員必修''| |区分|[[国文学科]]科目/一般(人数過多の場合は抽選)| |履修条件|| |単位数|2| |講師|[[袴田光康]]| |学位等|文理学部(学士(文学))| *概要 [#q1f88e6e] 全15回の授業の内、前半の第7回までの授業では律令国家における漢詩文を通史的に辿りながら 東アジアの漢字文化圏における日本の漢詩の独自性について講義していく。 第9回以降の後半の授業では昔話の「浦島太郎」で知られる浦嶋子伝承に関する漢文文献を取り上げ、 その変遷を辿りながら、具体的な漢文訓読の技術を学修していく。 長文の作品の場合には授業内で全文を読むことをできないこともある。(事前事後の学修をした方が良い。) #br グループワークや質問されることはない。 評価は2回のレポート課題によってする。 &color(Red){2024年から敗者復活課題といったものを出さなくなった。}; #br この科目は文理学部(学士(文学))のディプロマポリシーDP2及びカリキュラムポリシーCP2に対応している。 *講師の印象 [#ucc03ead] 宿題や予習復習を重視している。 *令和七年度(2025年度) [#a2becd30] 漢文学1と同じく後期のみ開講。漢文学1と一緒に取るのがおすすめ。 試験期間中は授業資料の配信が停止されて見られなくなるので、ノートを取るべし。 試験範囲は基礎文法(使役とか比較とかも含む)とこれまで出された課題。浦島太郎は範囲外。 #style(class=submenuheader){{ **後期 }} #style(class=submenu){{ |BGCOLOR(#555):COLOR(White):200|520|c |BGCOLOR(#fc2):COLOR(Black):授業形態|対面授業(稀に課題研究)| |日程/教室|水曜日 二限目/3405(三号館四階五番教室)| ***第一講目の内容 授業の説明。フィードバックは一回目の課題のみとのこと。他に特筆すべきものはない。早めに終わった。 ***第二講目の内容 #region(授業内容) ''授業内容'' -''漢字の概要'' 漢字は古代中国に発祥した表語文字である。表語文字とは、一つの文字で発音と意味の両方を表す文字のことを言う。 その起源は紀元前1300年頃に遡と言われ、10万字以上にのぼる文字数の多さが漢字の大きな特徴だが、実際に辞書類に載っているのは一万~五万字程度。 漢字は中国・台湾・モンゴル・朝鮮半島・日本・ベトナム・マレーシア・シンガポールなどで広く用いられたが、 現在は中国語・日本語以外は殆ど用いられなくなった。それでも約15億人が今も漢字を用いている。 -''漢字の起源'' 漢字の起源については、『淮南子』や『説文解字』などには黄帝(伝説上の最初の皇帝)に史官として仕えた蒼頡(そうけつ)なる人物が漢字の発明者とされる。 蒼頡は鳥の足跡を見て、足跡の形から鳥の種類がわかるように言葉や概念も同じように書いて表現できると考えて漢字を発明したと伝えられる。(あくまでも伝説) 実際に確認される最古の漢字の起源は、殷王朝(BC17世紀頃~BC11世紀)の時代の甲骨文字である。 甲骨文字とは、占いに用いられた亀の甲羅や牛の骨にその占いの結果などを記した古代文字のこと。 甲骨文字は絵に近い形の象形文字で、これが漢字の源流となったと見られます。 -''漢字の造字法による種類'' 甲骨文字は絵文字のような象形文字を基本としたが、一部には指事文字や会意文字も確認されている。漢字はその造字法から四つの種類に分類される。 象形文字...「日」や「山」のように事物の形を象った文字 指事文字...「上」や「下」のように抽象的概念を表した文字 会意文字...「休」や「男」のように象形文字や指事文字を組み合わせた文字 形声文字...「花」や「江」のように意味を表す部分と発音を表す部分を組み合わせた文字 こうした造字法により、多くの文字が作り出されたが、漢字の殆ど(8割程度)が&color(Red){形声文字};で占められている。 -''字体の変遷'' |王朝|年代|文字|h |殷|BC1600~BC1028年頃|甲骨文字| |周|BC1100~BC256年頃|金石文| |秦|BC221~BC206年頃|小篆| |漢|BC206~220年頃|隷書| |六朝|222~589年頃|楷書| 甲骨文字の次に登場するのが、殷・周(BC11世紀~BC8世紀)時代に青銅器に鋳込まれた金文である。石に刻まれた石文と併せて金石文とも呼ばれている。 特に周代以降の金文においては、形声文字が増えるという特徴が見られたと言われている。 周王朝が滅びると、群雄割拠の春秋戦国時代に入り、地方ごとにそれぞれの字体を用いるようになったが、後に秦(BC221~206)の始皇帝が統一した。 統一した書体は&color(Red){小篆(篆書)};と呼ばれている。小篆は金文の流れを汲む大篆を元に作られ、よりバランスの整った字形となった。 篆書は曲線等の装飾的な要素があった為、漢王朝(BC202~220年)になると木簡や竹簡を使う実務官僚は早く書くべく、篆書を簡略化し、直線的な文字を用いるようになった。 これが&color(Red){隷書};と呼ばれる書体である。隷書を走り書きして崩した字体がやがて&color(Red){草書};となる。 また漢代の末期から六朝時代(222~589年)かけて隷書をより直線的に表記した&color(Red){楷書};が生み出された。 殷の甲骨文字→周の金石文→秦の篆書→漢の隷書→六朝の楷書と、時代ごとに漢字は書体を変化させながら、次第に実用性を帯びた文字として洗練されていった。 隋(581~618年)や唐の時代(618~978年)に入ると、楷書が一般的に広く用いられるようになり、科挙でも楷書が「正字」として用いられた。 宋朝以降は印刷とも結びついて楷書が漢字の書体として標準化した。今日、用いられる多くの漢字はこうして定着していった。 -''日本への伝来'' 漢字の伝来については『古事記』や『日本書紀』の中に応神天皇の時代(五世紀前半)に百済の王仁(生没年未詳)という学者が『千字文』や『論語』を齎したという記事がある。 これらの書物とともに漢字が伝わったということになる。考古学的には埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文の漢字が最も古い例であり、 471年のものと推定されている。文献的にも考古学的にも漢字が5世紀に日本に伝来していたことは確かなようである。日本は輸入した漢字(楷書)を元に仮名文字が作った。 ※王仁は「わに」と読む。 ※稲荷山古墳出土の鉄剣には「辛亥年七月中記/乎獲居(ヲワケ)臣上祖名......獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時......」という記述が見られる。 #endregion #region(課題と答え(返り点のみ)) ''課題と答え(返り点のみ)'' ・次の白文に返り点と送り仮名を付しなさい。 ①我読書(ワレショヲヨム) →我&size(10){レ};読&size(10){レ};書 ②我好読書(ワレショヲヨムヲコノム) →我好&size(10){レ};読&size(10){レ};書 ③我与彼書(ワレカレニショヲアタフ) →我与&size(10){二};彼書&size(10){一}; ④我与書於彼(ワレショヲカレニアタフ) →我与&size(10){二};書於彼&size(10){一}; ⑤平-定天下(テンカヲヘイテイス) →平-定&size(10){二};天下&size(10){一}; ⑥不遠千里之道(センリノミチヲトオシトセズ) →不&size(10){レ};遠&size(10){二};千里之道&size(10){一}; ⑦不入虎穴、不得虎子(コケツニイラズンバ、コシヲエズ) →不&size(10){レ};入&size(10){二};虎穴&size(10){一};、不&size(10){レ};得&size(10){二};虎子&size(10){一}; #endregion ***第三講目の内容 #region(授業内容) ''授業内容'' -''『古事記』について'' 漢字文化を吸収する中で、中国に倣って『古事記』や『日本書紀』という歴史書が日本でも編纂されようになった。これらの史書には漢字の伝来に関する記述が見られる。 『古事記』は現存する日本最古の歴史書で、その成立は元明天皇の和銅5年(712)のことである。 内容は天地の開闢から始まり、神々の神話を記した神代から、推古天皇(554~628年)の時代までの出来事を紀伝体で記している。 その序によると、稗田阿礼が誦習した「帝皇日継(帝紀)」や「先代旧辞(旧辞)」を太安万侶が漢文に編纂したものだと言う。 「誦習」とは、単なる暗誦ではなく、書物を口に出して繰返し読むことであり、漢字の読み書きに習熟していたという意味だとも言われている。 漢字の伝来については『古事記』中巻の&color(Red){応神天皇の条};に記されており、鎌倉時代に書写された尊経閣文庫蔵『古事記』を見てみると、 漢文には返点や送仮名が、また欄外には頭注の見出しが付されているのが分かる。このように『古事記』は漢文で記され、訓読する形で読まれていた。 -''『日本書紀』について'' 『日本書紀』は勅令で編纂された最初の国史である。編年体で記されており、『漢書』『三国志』などの中国の史書の形式を参照して書かれたと見られる。 その成立は養老4年(720)で、『古事記』の成立から僅か8年後であった。こうした修史事業には漢文及び漢字文化に習熟した書記が必要であった事は想像に難くない。 5世紀から6世紀にかけて朝鮮半島の百済などから日本に移り住んだ多くの渡来の人々がおり、彼らは史(フヒト)と呼ばれる朝廷の書記官を構成していた。 中国に倣って国史が編纂された際には、そうした漢文に習熟した渡来の人々が大きな役割を果たしたと考えられる。 -''漢字伝来記事の比較'' 訓読の方法を身に付ければ、1300年前の史料でも、あるいは中国や韓国の漢文資料でも、日本語として理解することができる。 漢字の文献史料を読む際には大変便利であり、中国文化と密接な関係にある日本古代の歴史や文学を研究する上でも必要な技術と言える。 古事記』と『日本書紀』の両方に漢字伝来の記事があるが、違いも見られ、また、内容も正しいとは言い難い。 『古事記』では百済の和邇吉師が『論語』と『千字文』を齎し、これらの書物によって初めての漢字が伝来したとされているが、 『千字文』の成立は6世紀前半であり、応神朝(4世紀後半~5世紀前半)の史実としてはあり得ないのである。 これらの記事は史書編纂にも関与したらしい渡来系氏族の阿直史や文首らの始祖伝承ともなっており、自らの氏族の由来を史書に盛り込んだものとも言えよう。 -''漢文の読み方'' まず文の構造に注目し、主語(省略されていることもある)・述語(動詞を見つけることが重要)・目的語を把握する。次に述語・目的語に合わせて返り点を付けていく。 この時、固有名詞(人名や地名)がわかると文の構造が把握しやすくなる。そして、最後に文脈に合わせて送り仮名や読み添えを補う。 ただし、訓の読み方や読み添えは、一つだけの正解があるというわけではなく、いくつかの訓み方が可能である。 訓読はあくまでも漢文の内容を理解するための手段であり、解釈であることを忘れてはならない。 #endregion #region(課題と答え(返り点のみ)) ''課題と答え(返り点のみ)'' 「一」「ニ」「三」点で足りない場合には、「上」「中」「下」点を、更に必要な場合には「甲」「乙」「丙」点を用いる。 ①汝知我欲読古人書。(ナンジハワレノコジンノショヲヨマントホッスルヲシル) →汝知&size(10){三};我欲&size(10){レ};読&size(10){二};古人書&size(10){一};。 ②不聞人従日辺来。(ヒトノジツペンヨリキタルヲキカズ) ※ヒント:「従」は下から返るときには「よリ」と読むことが多い。 →不&size(10){レ};聞&size(10){下};人従&size(10){二};日辺&size(10){一};来&size(10){上}; ③悪称人之悪者。(ヒトノアクヲショウスルモノヲニクム) ※ヒント:「悪」には「にくム・そしル・いづクンゾ・いづクニカ・あく」等の読みがある。 →悪&size(10){三};称&size(10){二};人之悪&size(10){一};者 ④我不以其所-以養人者害人。(ワレハソノヒトヲヤシナフユエンノモノヲモッテヒトヲガイセズ) ※ヒント:「所以」の読みは「ゆゑん」で理由や根拠の意味。 →我不&size(10){乙};以&size(10){下};其所-&size(10){二};以養人&size(10){一レ};者&size(10){上};害&size(10){甲レ};人。 #endregion ***第四講目の内容 #region(基礎漢文法(再読文字)) ''基礎漢文法(再読文字)'' 「未」のように「いまだ~ず」と二度訓読する字を再読文字と言う。返り点は二度目に読むところに付ける。主な再読文字には次のようなものがある。 |字|書き下し|現代語訳|h |未|いまだ~ず|まだ~ない| |将|まさニ~セんとす|今にも~しようとする| |当(當)|まさニ~べシ|当然~すべきだ| |応(應)|まさニ~べシ|きっと~に違いない| |宜|よろシク~べシ|ぜひ~した方がいい| |須|すべかラク~べシ|必ず~しなければならない| |猶|なホ~ノ(ガ)ごとシ|ちょうど~のようだ| |蓋|なんゾ~ざル|どうして~しないのか| #endregion #region(授業内容) ''授業内容'' >補足 〈訓点〉照古王、&color(Navy){以};&size(10){&color(Red){二};};牡馬壱疋・牝馬壱疋&size(10){&color(Red){一};};付&size(10){&color(Red){二};};阿知吉師&size(10){&color(Red){一};};&color(Navy){以};貢上。 〈訓読文〉照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋ヲ以テ阿知吉師ニ付シテ貢上ル。 ※初めの「以」は訓読が必要(手段方法の意)。二つ目の「以」は「モと訓読しても間違いではないが(順接の接続詞)、置字として訓読しなくても良い。「受レ命以貢上人」の「以」も同様。 >補足 〈訓点〉十六年春二月、王仁来&color(Navy){之};。則太子菟道稚郎子師&color(Red){&size(10){レ};};&color(Navy){之};。 〈訓読〉十六年ノ春二月ニ、王仁来タリ。則チ太子菟道稚郎子之ヲ師トス。 ※注意したいのは「之」の訓じ方。「王仁来之」の「之」は不読。(「来レ之」て「之ニ来タリ」と訓じても間違いではないが、原則的には文末の「之」は不読) ※「師之」の「之」は不読として単に「師トス」と訓じてもいいが、「之ヲ師トス」と訓じた方が文意がわかりやすい(「之」は王仁を指す)。 ※文末の「之」は置字として不読とするのが原則。ただし、文脈によっては返点を補って訓読した方がわかりやすくなる場合もあるので注意 -''『懐風藻』について'' 『懐風藻』は日本最古の漢詩集。その成立は、序文によると奈良時代(710~794年)の天平勝宝3年(751年)とのこと。 編者については不明だが、近江朝から奈良時代にかけての64名の詩人が取り上げられており、詩の総数は118首(序には120首とある)に上る。 その詩の殆どが行幸や宴会などの公的な場で作られた五言詩であり、中国の六朝(222~589年)文学を代表する『文選』の影響を強く受けて四六駢儷体の対句表現を多用する点などにその特徴がある。 -''『懐風藻』成立の背景'' 『古事記』や『日本書紀』の編纂には漢字文化に精通した渡来系の人々が大きな役割を果たしたと考えられるが、天智天皇(在位668~672年)が律令制度を本格的に導入してからは、 公文書も全て漢字で表記するようになったので、政治に携わる貴族や官僚たちも漢字の習得が不可欠になった。自ずと漢字とその文化は官職にある男性貴族を中心に普及していった。 隋や唐の諸文化を模倣して律令国家を形成していく中で、中国に倣って日本でも儀式や宴会の場で漢詩が作られるようになる。 漢詩を詠むことは、単に唐風趣味とか文学的教養の問題ではなく、政治そのものであったということが、この時代の特徴である。それらの初期の日本漢詩を集めたのが『懐風藻』。 |>|『懐風藻』の時代区分と代表的詩人|h |第一期 近江朝時代(662~672年)|大友皇子| |第二期 天武・持統朝時代(672~697年)|大津皇子・持統天皇の吉野行幸| |第三期 文武朝時代(697~707年)|文武天皇| |第四期 奈良時代前期(707~729年)|長屋王とその文学サロン| |第五期 奈良時代後期(729~751年)|藤原総前・藤原宇合| -''『懐風藻』の序'' >''序文冒頭'' 対句表現に着目して改行すると分かりやすい。 逖聴&color(Red){&size(10){ニ};};前修&color(Red){&size(10){一};};、遐観&color(Red){&size(10){ニ};};載籍&color(Red){&size(10){一};};、 襲山降蹕之世、橿原建邦之時、 天造草創、人文未&color(Red){&size(10){レ};};作。 至&color(Red){&size(10){ニ};};於神后征坎品帝乗乾&color(Red){&size(10){一};};、 百済入朝啓&color(Red){&size(10){ニ};};龍編於馬厩&color(Red){&size(10){一};};、 高麗上表図&color(Red){&size(10){ニ};};烏冊於烏文&color(Red){&size(10){一};};。 王仁始導&color(Red){&size(10){ニ};};蒙於軽嶋&color(Red){&size(10){一};};、 辰爾終敷&color(Red){&size(10){ニ};};教於訳田&color(Red){&size(10){一};};。 遂使&color(Red){&size(10){下};};俗漸&color(Red){&size(10){ニ};};洙泗之風&color(Red){&size(10){一};};、 人趨&color(Red){&size(10){中};};斉魯之学&color(Red){&size(10){上};};。 逮&color(Red){&size(10){ニ};};乎聖徳太子&color(Red){&size(10){一};};、 設&color(Red){&size(10){レ};};爵分&color(Red){&size(10){レ};};官、 肇制&color(Red){&size(10){ニ};};礼儀&color(Red){&size(10){一};};。 然而専崇&color(Red){&size(10){ニ};};釈教&color(Red){&size(10){一};};、 未&color(Red){&size(10){レ};};遑&color(Red){&size(10){ニ};};篇章&color(Red){&size(10){一};};。 >''訓読の一例'' 逖ク前修ヲ聴キ、 遐ニ載籍ヲ観ルニ、 襲山降蹕ノ世、橿原建邦ノ時、 天造草創ニシテ、人文未ダ作ラズ。 神后征坎シ品帝乗乾ニ至リテ、 百済入朝シ龍編ヲ馬厩ニ啓キ、 高麗上表シ烏冊ヲ烏文ニ図ク。 王仁始メテ蒙ヲ軽嶋ニ導キ、 辰爾終ヒニ教ヲ訳田ニ敷ク。 遂ニ俗ヲシテ洙泗ノ風ニ漸メ、 人ヲシテ斉魯ノ学ニ趨カシム。 聖徳太子ニ逮ビテ、 爵ヲ設ケ官ヲ分ケ、 肇メテ礼儀ヲ制ス。 然レドモ専ラ釈教ヲ崇ビ、 未ダ篇章ニ遑アラズ。 |>|語釈|h |単語|解説|h |逖(テキ)|遠い、遥かの意。| |遐(カ)|遠い、遥かの意。| |前修|先人の教え。| |載籍|昔から伝わる書籍。| |襲山降蹕(ヒツ)之世|天孫ニニギノミコトが高千穂に降臨した時。| |橿原建邦之時|初代神武天皇が橿原(かしはら)に初めて宮を開いた時。| |神后征坎(カン)|神功皇后の朝鮮出兵。| |品帝乗乾|応神天皇(品陀和気命)の即位。| |龍編|儒教の書物。| |高麗|朝鮮半島北部の高句麗。| |上表|君主に文を奉ること。| |烏(ウ)冊|烏(カラス)の羽に書いた文書。| |烏文|文字のこと。| |軽嶋(かるしま)|「軽の坂」があった軽の地。| |辰爾(シンジ)|王辰爾。朝鮮半島から来た学者。高句麗の烏文を読み解いた。| |訳田(おさだ)|奈良の巻向の地。通訳などがいた外国文化の先進地域。| |洙泗之風・斉魯之学|孔子の教え。| |釈教|仏教。| |篇章|文学的な文章。| >''現代語訳'' 遠く昔の先人の教えを聴き、遥かに昔の書籍を観ると、天孫降臨の世、神武建国の時、国土創世の時であり、まだ人文は興っていなかった。 神功皇后が朝鮮に出兵し、その息子の応神天皇が即位するに至って、百済が入朝して儒教の漢籍を馬小屋で教授し、高句麗が上表して烏の羽の文書に読めない文字を書いて送ってきた。 王仁は初めて漢籍の啓蒙を軽嶋で広め、王辰爾は終にその教えを訳田で教授した。 こうして遂に日本に孔子の教えを勧め、人々を儒教に向かわせるようにしたのである。 聖徳太子に及んで、爵位を設け官位を分け初めて礼儀を制度とした。しかし、専ら仏教を尊んだので、漢詩文はまだ作られる余地がなかった。 #endregion #region(課題と答え) ''課題と答え'' 今回の課題は『懐風藻』の序の一部(下記のもの)を書き下すことである。 >''課題'' 及&size(10){&color(Red){レ};};至&color(Red){&size(10){ニ};};淡海先帝之受命&color(Red){&size(10){一};};也、 恢&color(Red){-};&color(Red){&size(10){ニ};};開帝業&color(Red){&size(10){一};};、弘&color(Red){-};&color(Red){&size(10){ニ};};闡皇猷&color(Red){&size(10){一};};、 道格&color(Red){&size(10){ニ};};乾坤&color(Red){&size(10){一};};、功光&color(Red){&size(10){ニ};};宇宙&color(Red){&size(10){一};};。 既而以為、 調&size(10){&color(Red){レ};};風化&size(10){&color(Red){レ};};俗、 莫&size(10){&color(Red){レ};};尚&color(Red){&size(10){ニ};};於文&color(Red){&size(10){一};};、 潤&size(10){&color(Red){レ};};徳光&size(10){&color(Red){レ};};身、孰先&color(Red){&size(10){ニ};};於学&color(Red){&size(10){一};};。 爰則建&color(Red){&size(10){ニ};};庠序&color(Red){&size(10){一};};、徴&color(Red){&size(10){ニ};};茂才&color(Red){&size(10){一};};、 定&color(Red){&size(10){ニ};};五礼&color(Red){&size(10){一};};、興&color(Red){&size(10){ニ};};百度&color(Red){&size(10){一};};。 憲章法則、規模弘遠。 夐古以来、未&color(Red){&size(10){ニ};};之有&color(Red){&size(10){一};};也。 於&size(10){&color(Red){レ};};是三階平煥、四海殷昌。 旒纊無為、巌廊多&color(Red){&size(10){レ};};暇。 旋招&color(Red){&size(10){ニ};};文学之士&color(Red){&size(10){一};};、時開&color(Red){&size(10){ニ};};置醴之遊&color(Red){&size(10){一};};。 当&color(Red){&size(10){ニ};};此之際&color(Red){&size(10){一};};、 宸翰垂&size(10){&color(Red){レ};};文、賢臣献&color(Red){&size(10){レ};};頌、 雕章麗筆、非&color(Red){&size(10){ニ};};唯百篇&color(Red){&size(10){一};};。 但時経&color(Red){&size(10){ニ};};乱離&color(Red){&size(10){一};};、悉従&color(Red){&size(10){ニ};};煨燼&color(Red){&size(10){一};};。 言念&color(Red){&size(10){ニ};};湮滅&color(Red){&size(10){一};};、輙悼&color(Red){&size(10){ニ};};傷懐&color(Red){&size(10){一};};。 |>|語釈|h |単語|解説|h |淡海先帝|天智天皇のこと。| |受命|天命を受けて即位すること。| |恢開(カイカイ)|大きく広げること。| |弘闡(コウセン)|広く明らかにすること。| |皇猷(コウユウ)|天皇のはかりごと、政治上の計画。| |乾坤(ケンコン)|天地のこと。| |以為|思う(オモヘラク、オモフニなどと訓ずる)。| |庠序(ショウジョ)|学校。| |茂才|優れた才能を持つ者。| |五礼|祭祀・葬祭・賓客・軍事・冠婚の五つの礼。| |憲章法則|憲法と法律。| |弘遠|広く深遠なこと。| |夐古(ケイコ)|昔のこと。| |三階平煥|宮中が平安なこと。| |四海殷昌|天下(日本全国)が賑やかで栄えること。| |旒纊(リュウコウ)|帝の冠りの飾り。転じて天皇そのものを指す。| |巌廊(ガンロウ)|朝廷。| |旋|しばしば。| |置醴(チレイ)之遊|酒を交えて詩を作る宴会。| |宸翰(シンカン)|天皇の筆(天皇が書いた文書や筆跡)。| |雕章(チョウショウ)麗筆|美しい文章。| |乱離|争乱。ここでは壬申の乱を指す。| |煨燼(カイジン)|焼けて灰になること。| |言|ここに。| |湮滅(インメツ)|消滅。| |輙(チョウ)|すなわち。| >''書き下し文'' 淡海ノ先帝ノ受命ニ至ルニ及ビ 、 帝業ヲ恢開(かいかい)シ、皇猷(こうゆう)ヲ弘闡(こうせん)シ 、 道ハ乾坤ニ格(いた)リ、功ハ宇宙ニ光ル 。 既ニシテ以為(おもへ)ラク 、 風ヲ調(ととの)へ俗ヲ化スニ、文ニ尚(たっと)キハ莫ク 、 徳ヲ潤シ身ヲ光(て)ラスニ、孰(いず)レカ学ニ先ナラント 。 爰ニ則チ庠序(しょうじょ)ヲ建テ、茂才(もさい)ヲ徴(め)シ 、 五礼ヲ定メ、百度ヲ興ス 。 憲章法則、規模弘遠ニシテ 、 夐古(けいこ)以来、未ダ之レ有ラザルナリ 。 是ニ於イテ三階平煥(へいかん)ニシテ、四海殷昌(いんしょう)ナリ 。 旒纊(りゅうこう)無為ニシテ、巌廊(げんろう)暇多シ 。 旋(しばしば)文学ノ士ヲ招キ 、 時ニ置醴(ちれい)ノ遊ヲ開ク 。 此ノ際ニ当リ 、 宸翰(しんかん)文ヲ垂レ、賢臣頌(しょう)ヲ献ズ 。 雕章麗筆(ちょうしょうれいひつ)、唯ダ百篇ニ非ラズ 。 但シ時ニ乱離ヲ経テ、悉(ことごと)ク煨燼(かいじん)ニ従フ 。 言(ここ)ニ湮滅(いんめつ)ヲ念ヒ、輙(すなわ)チ傷懐(しょうかい)ヲ悼(いた)ム #endregion ***第五講目の内容 大友皇子の伝記の訓読が今回の課題。 #region(授業内容と課題の答え) ''授業内容と課題の答え'' 『懐風藻』の巻頭には、大友皇子の伝記と詩二首が載せられている。大友皇子は『懐風藻』の中でも最も古い時代の詩人と言える。 >''大友皇子(648~672年)'' 天智天皇(626~672年)の第一皇子で、671年に太政大臣となって父帝の政務を補佐した。 天智天皇は大友皇子を後継者とすることを密かに重臣たちに誓わせたが、 天智天皇が崩御すると、東宮であり叔父であった大海人皇子(後の天武天皇)との間に壬申の乱が起こる。 これに敗れた大友皇子は首を括って自害した。 >''大友皇子の伝記の訓読文'' 皇太子ハ、淡海ノ帝ノ長子ナリ。魁岸奇偉、風範弘深、眼中精耀、顧盼煒燁ナリ。唐使ノ劉徳高、見テ異シミテ曰ク、此ノ皇子、風骨世間ノ人ニ似ズ。實ニ此ノ国ノ分ニ非ズト。嘗テ夜に夢ミル。天中洞啓シ、朱衣ノ老翁、日ヲ捧ゲテ至リ、擎ゲテ皇子ニ授ク。忽チニ人有リテ、腋底従リ出デ来ル。便チ奪ヒテ将チ去ル。覚メテ驚キ異シム。具ニ藤原ノ内大臣ニ語ル。歎キテ曰ク、恐ルラクハ聖朝万歳ノ後、巨猾ノ間釁有ラム。然レドモ臣平生曰ク、豈ニ此クガ如キ事有ランヤ。臣聞ク、天道ハ親無シ。惟ダ善ヲノミ是レ輔クト。願ハクバ大王勤メテ徳ヲ修メヨ。災異ハ憂フルニ足ラズ。臣息女有リ。願ハクバ後庭ニ納レ、以テ箕帚ノ妾ニ充テヨト。遂ニ姻戚ヲ結ビ、以テ親シク之ヲ愛ス。年甫ク弱冠ニシテ、太政大臣ヲ拝シ、百揆ヲ總ベテ以テ之ヲ試ミル。皇子博学多通ニシテ、文武ノ材幹有リ。始メテ万機ヲ親ラニス。群下畏服シ、蕭然タラザルハ莫シ。年二十三、立チテ皇太子ト為ル。広ク学士沙宅紹明・塔本春初・吉太尚・許率母・木素貴子等ヲ延キテ、以テ賓客ト為ス。太子天性明悟、雅ニ博古ヲ愛ス。筆ヲ下セバ章ト成リ、言ヲ出セバ論ト為ル。時ニ議スル者、其ノ洪学ヲ歎ク。未ダ幾バクアラズニ文藻日ニ新ナリ。壬申ノ年ノ乱ニ会ヒテ、天命遂ゲズ。時ニ年二十五。 |>|語釈|h |単語|解説|h |魁岸奇偉|逞しく立派なさま。| |風範弘深|風采が深遠で立派なこと。| |眼中精耀|眼が鮮やかに光るさま。| |顧盼煒燁|瞳を巡らすと輝くさま。| |劉徳高|天智四年に来朝した唐の使者。| |風骨|風采と骨格。| |天中洞啓|天の門が大きく開くこと。| |擎(ケイ)|かかげる。| |腋底|掖庭に同じ。宮門の脇の小門。| |便|訓「すなわち」。| |藤原内大臣|藤原鎌足。| |聖朝万歳之後|天智天皇の御代の後。| |巨猾|とても悪賢い者。| |間釁(カンキン)|隙間を狙うこと。| |惟|訓「ただ」。| |箕帚(キシュウ)之妾|掃除などのお世話をする人。すなわち妻。| |年甫|はじめて。やっと~したばかり。| |百揆|全ての役人。百官。| |試|官吏登用の試験。| |材幹|物事をやりこなす能力。| |群下|群臣たち。| |学士沙宅紹明(サタクショウメイ)&br;塔本春初(トウホンシュンショ)&br;吉太尚(キチタイショウ)&br;許率母(コ・ソツボ)&br;木素貴子(モクソキシ)|いずれも天智朝に百済から渡来した知識人。| |雅|いつも。| |博古|古い文物について学ぶこと。| |洪学|広い学識。| |天命|寿命。| #br 《《返点についての補足》》 -1.同一の文の中で「一」「ニ」点を繰り返して用いることはできない。 -2.一二点は「一」から「三」までで、「四」は使えないので「上」「下」を使う。 #endregion ***第六講目の内容 #region(使役) ''使役'' |使役の文の型|訓読|意味|h |A主語+〔使・令・教・遣〕+B使役の対象+C動作(未然)+D目的語|A(ハ)BヲシテDヲCセシム|AはBにDをCさせる| |字|>|例文|備考|h |~|原文|訓読文|~|h |使|王怒使人殺其父。|王は怒りて人をして其の父を殺さしむ。|| |令|令将軍攻城門。|将軍をして城門を攻めしむ。|| |教|天帝使我長百獣。|天帝我をして百獣の長たらしむ。|「長」は「長タリ」と訓じて未然形「長タラ」に接続。| |遣|天教人相愛。|天は人をして相ひ愛せしむ。|「愛す」は他動詞サ変活用なので未然形は「愛せ(ず)」になる。| #endregion #region(授業内容) ''授業内容'' >''大友皇子の漢詩'' -【原文】 五言。侍宴。一絶 皇&color(Red){-};明&color(Red){&size(10){二};};光日&color(Red){-};月&color(Red){&size(10){一};};。(起句) 帝&color(Red){-};徳&color(Red){&size(10){二};};載天&color(Red){-};地&color(Red){&size(10){一};};。(承句) 三&color(Red){-};才&color(Red){&size(10){二};};並泰&color(Red){-};昌&color(Red){&size(10){一};};。(転句) 万&color(Red){-};国&color(Red){&size(10){二};};表臣&color(Red){-};義&color(Red){&size(10){一};};。(結句) -【訓読】 五言。宴ニ侍ル。一絶。 皇明ハ日月ト光リ、 帝徳ハ天地ト載ス。 三才並ビニ泰昌ニシテ、 万国ハ臣義ヲ表ス。 -【通釈】 我が天子の威光は太陽や月のように光り輝き、 我が天子の仁徳は天や地のように全てを載せ覆う。 天地人の三才は、(その天子の威光と仁徳によって)安らかで盛んであり、 (それゆえ)万国が朝貢して我が天子に臣下の礼を表すのである。 -【解説】 天智天皇を褒め称えた一首。「侍宴」と題することから、天皇臨席の公的な宴席で詠まれたものと思われる。 あるいは「万国」とあることからすると、外国の使節を迎えた時の饗応かと推測される。 詩中の語句には『文選』に使われた言葉が用いられている。そこに中国の六朝文学の影響が認められる。 中国をモデルとして天皇を中心とする律令国家を目指した近江朝の時代性をよく反映した漢詩と言える。 |>|語釈|h |単語|解説|h |皇明|次句の「帝徳」と対になる。「皇」は帝と同じく天子の意、「明」は威光のこと。&br;ここでは天智天皇の威光を指す。『文選』「西都賦」に「天人合応、以発皇明」とある。| |日月|太陽と月。訓読の「ト」は「~の如く」の意。次句と対句となる。| |帝徳|帝は天帝の命を受けた皇帝の意で、徳はその仁徳。「皇明」と対をなす。| |載天地|天は全てを覆い、地は全てを載せる。「覆載」(ふうさい)の「覆」を略して「載」の字のみを用いたものと見られる。| |三才|天・地・人。宇宙の万物を指す。『文選』「西征賦」に「此三才者天地人道」とある。| |泰昌|安定し、繁栄していること。| |万国|すべての国。『文選』「西都賦」に「観万国也」とある。| |臣義|臣下としての礼儀。ここでは、国々の使者が天智天皇のもとに朝貢して臣下の礼を表したことをいう。| #endregion ***第七講目の内容 #region(受身) ''受身'' 見・被・為・所の字には下の動詞を受身にする用法がある。 於・乎・于の下に動作主が示されている場合は受身として読む。また、「~スル所ト為ル」も受身として読む。 |>|>|CENTER:''文法''|h |型|訓読|訳|h |〔見・被・為・所〕+ A 動詞|A らル|A される| |動詞+〔於・乎・于〕+ B 動作の主|B に A らル|B に A される| |体言+為+ B 体言+所+C動作|A ハ B ノCスル所ト為ル|A は B にCされる| |>|>|例文|h |原文|訓読文|訳文| |信而見疑、忠而被謗。|信にして疑はれ、忠にして謗らる。|信頼できる者でも疑われ、忠節な者でも非難される。| |義経為頼朝所追。|義経は頼朝の追ふ所と為る。|義経は頼朝に追われた。| |唯辱於奴隷之手。|唯だ奴隷の手に辱めらる。|ただ奴隷の手で辱められる。| #endregion #region(授業内容) ''授業内容'' >''大津皇子(663~686年)'' 壬申の乱で大友皇子に勝利した天武天皇の皇子。 『日本書紀』では第三子とされているが、『懐風藻』では長子と記されている。 母は天智天皇の皇女である大田皇女(持統天皇の姉)であったので、帝位につく可能性も高い皇子だったが、その母は大津が4歳の時に薨去した。 母方の後見が無くなったため、持統天皇を母とする草壁皇子が681年に立坊した。 686年に天武天皇が崩御すると、大津皇子は謀反の疑いをかけられ、自害するに至った。 >''大津皇子の「伝記」'' -【本文】 皇子者浄御原帝之長子也。 状貌魁梧、器宇峻遠。幼年好学、博覧而能属文。 及壮愛武、多力而能撃剣。 性頗放蕩、不拘法度。 降節禮士、由是人多附託。 時有新羅僧行心。解天文卜筮。 詔皇子曰、太子骨法、不是人臣之相。 以此久在下位、恐不全身。 因進逆謀。迷此詿誤、遂図不軌。 嗚呼惜哉。蘊彼良才、不以忠孝保身。 近此姧豎、卒以戮辱自終。 -【書き下し文】 皇子ハ、浄御原帝ノ長子ナリ。 状貌魁梧、器宇峻遠ナリ。幼年ニシテ学ヲ好ミ、博覧ニシテ能ク文ヲ属(つづ)ル。 壮ニ及ビテ武ヲ愛シ、多力ニシテ能ク剣ヲ撃ツ。 性頗ル放蕩ニシテ、法度ニ拘ワラズ。 節ヲ降シ士ヲ禮シ、是ニ由リテ人多ク附託ス。 時ニ新羅僧行心有リ。天文卜筮ヲ解ス。 皇子ニ詔ゲテ曰ク、太子ノ骨法、是レ人臣ノ相ニアラズ。此レヲ以テ久ク下位ニ在ラバ、恐ルラクハ身ヲ全クセズト。 因リテ逆謀ヲ進ム。此ノ詿誤ニ迷ヒ、遂ニ不軌ヲ図ル。 嗚呼(ああ)惜シキ哉。彼ノ良才ヲ蘊(つつ)ミ、忠孝ヲ以テ身ヲ保タズ。 此ノ姧豎ニ近ヅキ、卒(つひ)ニ戮辱ヲ以テ自ラ終フ。 |>|語釈|h |単語|解説|h |浄御原帝|天武天皇。| |状貌魁梧(じょうぼうかいご)|状貌は身体容貌のことで、魁梧は大きいこと。| |器宇峻遠(きうしゅんえん)|人としての器量が高く優れていること。| |能|訓は「よく」。「~ができる」の意味。| |属文|「属」は文章を綴(つづ)ること。| |壮|壮年。| |頗|とても。非常に。| |法度|規則、きまりごと。| |降節禮士|自分の身分(節)をへりくだり、有能な者(士)を厚く礼する意。| |行心|新羅僧の名。| |卜筮(ぼくぜい)|占い。| |詔|ここでは「告げる」の意。| |骨法|骨ぐみ、骨の相。| |相|人相。| |逆謀|謀反(むほん)。| |詿誤(かいご)|欺き騙すこと。| |不軌|規則を守らぬこと。謀反。| |嗚呼|訓「ああ」、感嘆の語。| |蘊|包む。| |姧豎(かんじゅ)|悪賢い者。| |戮辱(りくじょく)|屈辱。| |終|命を絶つこと。| >''大津皇子の漢詩'' ※無韻の詩 -【本文】 五言。臨終。一絶。 金烏臨西舎 鼓声催短命 泉路無賓主 此夕誰家向 -【書き下し文】 五言。臨終。一絶。 金烏は西舎を臨み、 鼓声は短命を催す 泉路に賓主は無し 此の夕に誰の家に向ふ -【訳文】 傾いた太陽は西の建物を照らし 時を告げる太鼓の音は私の短い命をせきたてる 黄泉の道には客人も主人もいないという この夕べに私は一体誰の家に向かうのであろうか |>|語釈|h |単語|解説|h |臨終|死を迎えること。| |一絶|「絶」は絶句体を指す。一首の絶句の意味。ただし、この詩は韻を踏まない無韻の詩である。| |金烏(きんう)|太陽。中国では太陽に三本足の烏が居るという伝説がある。金の烏は太陽の象徴。| |西舎(せいしゃ)|西側にある建物。日が沈む西の空を指す比喩としても使われる。| |鼓声(こせい)|時刻を知らせる太鼓の音。当時は中国風に太鼓を鳴らして時刻を知らせた。(処刑の時間を告げる太鼓の音の意も含む)| |催(うながす)|催促する。促す。| |泉路(せんろ)|ここでの「泉」は黄泉(よみ)(死後の世界)の意味で、「路」は黄泉への路をいう。| |賓主(ひんしゅ)|「賓(ひん)」は客、「主(しゅ)」はその客をもてなす宿のあるじ。(死後の世界に旅立った者が、泊まる宿とその主人の意)| #endregion ***第八講目の内容 課題研究。各解答の最初に必ず①~⑱の問題番号を明記せねばならない。 提出の期限は11月19日(水)午前10:30まで。 #region(課題の答え) ''課題の答え'' -(1) --①『古事記』 天武天皇が稗田阿礼に帝紀や旧辞を読み習わせ、元明天皇がその内容を太安万侶に撰録させた奈良時代の歴史書。上巻は国土の起源と王権の由来を神代の事柄として記し、中・下巻は国家形成史・皇位継承の経緯を記す。 --②王仁(和邇) 應神天皇の御代に百済から呼び寄せたとされる渡来人で古事記に論語と千字文を齎したことが、応神紀に太子菟道稚郎子が師としたことが見え、書首らの祖とされる。 --③『文選』 中国の南北朝時代の南朝梁の蕭統によって編纂された詩集・文集で、春秋戦国時代から当時までの文学者一三一名による八百余の作品を、三十七に分類して収録し、蕭統が自ら序文を書いている。『懐風藻』に強い影響を与えた。 --④『懐風藻』 天平勝宝三年に成立した、日本最古の漢詩集。収録された詩の殆どが行幸や宴会などの公的な場で作られた五言詩であり、『文選』の影響を強く受けて四六駢儷体の対句表現を多用する点などにその特徴がある。 --⑤大友皇子 天智天皇の第一皇子で後継者であったが、壬申の乱において叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗北し、自決した。弘文天皇として列せられるが、実際に即位したかは不明。 #br -(2) ⑥我は書を彼に与ふ。 ⑦虎穴に入らずんば、虎子を得ず。 ⑧汝は我の古人の書を読まんと欲するを知る。 ⑨我は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。 ⑩未だ之有らずや。 ⑪須らく病苦之時を思うべし。 ⑫将軍をして城門を攻めしむ。 ⑬天帝は我をして百獣の長たらしむ。 ⑭信にして疑はれ、忠にして謗らる。 ⑮唯だ奴隷之手に辱めらるのみ。 #br -(3) --⑯ 金烏は西舎を臨み、 鼓声は短命を催す 泉路に賓主は無し 此の夕に誰の家に向ふ --⑰ 傾いた太陽は西の建物を照らし 時を告げる太鼓の音は私の短い命をせきたてる 黄泉の道には客人も主人もいないという この夕べに私は一体誰の家に向かうのであろうか --⑱ // 文章から考えれば、普段から見聞きしていた筈の斜陽も時報も己の命運を象徴しているようで、感じたことがない、どうしようもない気分になったと思われる。また、「泉路に賓主は無し」という一文からは、黄泉には家来も主君もおらず、一人っきりになってしまうのではないかという不安が読み取れる。そして最後では、匿ってくれる家はあるのだろうか、いや、ないだろう、と状況のどうしようもなさを嘆いている。 この詩は大津皇子の臨終に際して詠まれた辞世の詩である。大津皇子は文武に優れ、多くの人々に慕われる人物であったため、却って皇太子である草壁皇子のライバルと見なされ、草壁皇子の母であり、天武天の后でもあった持統天皇方から疎まれた。天武天皇が崩御すると、謀の罪に問われ、捕らわれた翌日に死を賜る(自死)ことになった。こうした背景を持つ辞世の詩には悲壮感が漂っている。大津皇子は、己の運命に対する無念さや刻々と迫る死に対する不安を詩に詠んでいるが、その一方で、「此の夕誰がに向ふ」という結句には、死を静か受け入れた諦観の心境も読み取ることができる。 #endregion ***第九講目の内容 前回の課題研究のフィードバックと授業。 #region(比較) ''比較'' |文の型|書き下し|現代語訳|h |[形容詞・形容動詞]ニ+[於・乎・于]+[比較対象]一|[比較対象]ヨリモ[形容詞・形容動詞]|| |不(未)レ〔如・若〕~|~にしカず|(~に及ばない、~の方がよい)| |莫(無)レ〔如・若〕~|~ニしクハなシ|(~にこしたことはない)| >''例文'' ①霜葉紅於二月花。 →霜葉は二月花よりも紅なり。(霜にうたれた葉は二月の花よりも紅い。) ②百聞不如一見。 →百聞は一見に如かず。(百回聞くことは一回見ることに及ばない。) ③未若文章之無窮。 →未だ文章の無窮なるに若かず。(文章が永遠であることには及ばない。) ④莫如寒夜読書。 →寒夜に書を読むに如くは莫し。(寒い夜に書を読むのにこしたことはない。) #endregion #region(浦島子) ''浦島子'' >''『日本書紀』雄略天皇二十二年七月条'' 秋七月、丹波国余社郡管川人水江浦嶋子、乗舟而釣、遂得大亀。便化為女。 於是浦嶋子感以為婦、相逐入海、到蓬莱山、歴覩仙衆。語在別巻。 |>|語釈|h |単語|解説|h |丹波国余社郡管川|現在の京都府与謝郡伊根町のあたりを指す。管川は「つつかわ」と読む。| |便|訓は「すなわち」。| |女|訓は「をとめ」。「便化為女」は「便(たちま)ち化(ば)けて女(をとめ)と為(な)る」と読む。| |感|古訓は「めで(愛で)」。ここでは「気に入る」「恋する」の意味。| |婦|古訓は「め(女)」。妻の意。| |相逐|古訓は「あひしたがひ」。逐は「後を追う」「順に従う」の意。| |蓬莱山|道教で東の海上にあるとされる神仙境の島。不老長寿の果実があり、そこには仙人が住むと信じられた。&br;古訓は「とこよのくに(常世の国)」。中国的神仙境に日本古来の異界である「常世」を当てている。| |仙衆|古訓は「ひじりたち」。| |歴覩|訓は「めぐりみる」。覩(ト)は「見る」の意。| |語|古訓は「こと」。ここでの「こと」言葉の意ではなく、物語を指す。| |別巻|古訓は「ことまき」。『日本書紀』は別な書物を指す。『丹後国風土記』の浦島子伝を指すか。あるいは別の書物があったものか。| 『日本書紀』の記事は、地方から報告された「浦島子」の体験談の概略(あらすじ)を記載したものか。 この記事の元ネタとなるような「浦嶋子の物語」があったらしく、「別巻」(別の本)にはさらに詳しく記されていたようだ。 この「別巻」が『丹後国風土記』かは定かでないが、『丹後国風土記』には詳しい記述が見られる。 #endregion ***第十講目の内容 [#zd2f1689] #region(『丹後国風土記』の浦島子) ''『丹後国風土記』の浦島子'' 風土記の撰進の命は和銅6年(713年)に出され、その数年の後に『丹後国風土記』は撰上されたと見られ、 正確な成立年代は不明であるが、『日本書紀』とほぼ同時代の資料と言える。 ただし、『丹後国風土記』は諸書に引用された逸文のみが残された形となっている。 浦島子の記事も『釋日本紀』(13世紀後半の成立)という書物に引用されているものを『丹後国風土記』と呼んでいる。 >''本文と書き下し文①'' 丹後国風土記曰、與謝郡日置里、此里有筒川村。此人夫日下部首等先祖、名云筒川嶼子。 爲人姿容秀美、風流無類。斯所謂水江浦嶼子者也。是舊宰伊預部馬養連所記無相乖。故略陳所由之旨。 #br 丹後国風土記曰く、與謝の郡日置の里、此の里に筒川の村有り。此の人夫(たみ)日下部首等が先祖、名を筒川嶼子(つつかわのしまこ)と云ふ。 人と爲り姿容秀美にして、風流(みやび)類(たぐい)無し。斯(これ)所謂(いはゆる)水江浦嶼子といふ者也。 是は舊宰(もとのみこともち)伊預部馬養連(いよべのうまかいのむらじ)が記す所と相ひ乖(そむ)くこと無し。故(かれ)略(はぶ)きて所由(こと)の旨を陳(の)ぶ。 |>|語釈|h |単語|解説|h |丹後国|京都府東北部、丹後半島あたりの国。『続日本紀』和銅六年(七一三)四月三日条に「丹波国加佐・与佐・丹波・竹野・熊野五郡」とあり、&br;与佐郡をはじめ五郡を丹波国から分して新たに丹後国が置かれたことがわかる。&br;雄略紀が余社郡(与佐郡・與謝郡に同じ)を丹波としたのは、和銅六年以前の国名による。| |日置(ひおき)|丹後半島東南の宮津市日置該当地。雄略紀には里名は無い。| |筒川(つつかわ)|現在の伊根町に属する。紀では「管川」と表記。| |人夫|古訓「たみ」| |日下部首|日下部(くさかべ)の伴造(ともみやつこ)たちの子孫で、丹波地方に勢力を豪族であったと見られる。| |嶼|音は「ショ」、訓は「シマ」。嶼子は嶋子と同じ。| |風流|古訓「みやび」| |舊宰|訓「もとのみこともち」。「舊」は「旧」の旧字体に同じ。「宰」は地方行政官で律令の国司に当たる。| |伊預部馬養連|持統・文武朝の文人。丹波国守。大宝律令の撰進メンバーでもあった。&br;大宝二年(七〇二)頃の記した浦嶋子の伝は不明であるが、『古事談(十三世紀前半)』「浦島子伝」がそれと言われる。| |所由|古訓「こと」。| この冒頭部には、いくつか重要な情報が記されている。 ①舞台を「丹後国」とするこの記事は和銅6年(713)以降に書かれたものであること。 →雄略紀は「丹後国」設置(713年)以前の古い国名に依拠していた。 ②浦嶋子は、この地方では地元の豪族と見られる日下部氏の始祖として伝承されていたこと。 ③『丹後国風土記』とは別に、伊預部馬養連(702年没)という人が書いた浦嶋子の伝があったこと。 →伊預部馬養連の「浦嶋子伝」は702年以前の成立だから、雄略紀の言う「別巻」は伊預部馬養連の「浦嶋子伝」を指す可能性も考えられる。 >''本文と書き下し文②'' 長谷朝倉宮御宇天皇御世 (省略) |>|語釈|h |単語|解説|h |長谷朝倉御宇天皇|雄略天皇を指す。「御宇」の古訓は「あめのしたしろしめす」| |五色亀|五色(青・白・赤・黒・黄の中国の説に対応)の亀は瑞祥。| |人宅|古訓「ひとざと」。| |海庭|古訓「うなばら」。| |女娘|古訓「をとめ」。| |微咲|古訓「ほほえみ」。| |勝|「かつ」ではなく、「たえる」意。| |就|「就」は「つく」の意。風雲についてとは、風雲に乗って来ること。| |天上仙家|天空に住む天仙。古訓は「あめのひじりのいへ」。| |愛|古訓「うつくしみ」。| |賤妾|古訓「やつこ」。女が自分を卑下した言い方。| |畢(ヒツ)|「おえる」の意。| |許不|「許可」か「不許可」かという諾否。古訓「いなせ(否諾)」。| |触|物事に触れて心が動くことで、ここでは心変わりの意。| |蓬山|神仙境の蓬莱山の略。古訓「とこよのくに」。| |闕臺|古訓「うてな」。宮城の門。| |晻(アン)|「くらい」の意。| |楼堂|古訓「たかどの」。二階建ての建物| |玲瓏(レイロウ)|美しく照り輝くさま。| >''要点整理'' ①時代は雄略天皇の時代のこと→『日本書紀』と同じ。 ②嶋子の釣った五色の亀が乙女となる→『日本書紀』では大亀 ③乙女の方が風流な嶋子を見そめて近づいた→独自の記述 ④乙女は「仙家の人」であり、「神女」と認識されている。 ⑤二人が向かうのは蓬山→『日本書紀』の蓬莱山に同じ。 『日本書紀』雄略紀と類似しているが、内容は『丹後国風土記』の方が遥かに詳しく、物語的。 #endregion ***第十一講目の内容 [#ib872ca7] #region(否定) ''否定'' >''否定を示す漢字'' ①不・弗(~ず)※条件文の場合(~ずンバ)・(~ざレバ) ②無・莫・勿・毋(~なシ)※命令文・禁止文の場合(~なカレ) ③非・匪(~ニあらズ) >''練習問題'' ①其人弗能応也。 ※能...あたふ(~できる) →其の人応ふる能はざるなり。 ②我心匪石。 →我が心は石に匪ず。 ③非疾痛害事也。 ※疾痛...痛み ※害...支障がある →疾痛事を害するに非ざるなり。 ④過則勿憚改。 ※則...すなわチ。意味としては特に訳さない助辞 →過ちては則ち改むるを憚る勿かれ。 |CENTER:全部否定|CENTER:部分否定|h |常不~&br;(つねニ~ず)&br;「いつも~ない」|不常~&br;(つねニハ~ず)&br;「いつも~とは限らない」| |必不~&br;(かならズ~ず)&br;「必ず~ない」|不必~&br;(かならズシモ~ず)&br;「必ず~とは限らない」| |盡不~&br;(ことごとク~ず)&br;「すべて~ない」|不盡~&br;(ことごとクハ~ず)&br;「すべて~とは限らない」| |復不~&br;(まタ~ず)&br;「今回もまた~ない」|不復~&br;(まタ~ず)&br;「二度とは~ない」| |構文|書き下し文|現代語訳|h |未嘗~|いまダかつテ~ず|今まで一度も~ない| |不敢~|あへテ~ず|決して~ない| |例文|書き下し文|現代語訳|h |必不&color(Red){&size(10){レ};};有&color(Red){&size(10){レ};};言|必ず言有らず|必ず言葉はない| |不&color(Red){&size(10){ニ};};必有&color(Red){&size(10){一レ};};言|必ずしも言有らず|必ず言葉があるとは限らない| |我復不&color(Red){&size(10){ニ};};努力&color(Red){&size(10){一};};|我復た努力せず|私は今回も努力しない| |我不&color(Red){&size(10){ニ};};復努力&color(Red){&size(10){一};};|我復た努力せず|私は二度と努力しない| |未&color(Red){&size(10){ニ};};嘗見&color(Red){&size(10){一レ};};泣|未だ嘗て泣くを見ず|今まで一度も泣いたのを見たことがない| #endregion #region(蓬莱山(とこよ)の浦嶋子) >''記述'' -''本文'' 即立前引導、進入于内。 女娘父母共相迎、揖而定坐。 于斯称説人間仙都之別、談義人神偶會之嘉。 乃薦百品芳味。兄弟姉妹等挙杯献酬。隣里幼女等紅顔戯接。 仙哥寥亮、神儛透迤。其爲歓宴、萬倍人間。 於茲不知日暮。但黄昏之時、群仙侶等漸々退散。 即女娘獨留。雙肩接袖、成夫婦之理。 -''書き下し文'' 即ち立ちて前に引導(みちび)き、内に入り進む。 女娘の父母、共に相ひ迎へ、揖(をろが)みて定めて坐す。 斯(ここ)に人間(ひとのよ)・仙都(とこよ)の別(わかち)を称説(と)き、人神 偶(たまさか)會へる嘉(よろこ)びを談義(かた)る。 乃ち百品の芳しき味(あぢはひ)を薦(すす)む。兄弟姉妹等 杯を挙げて献酬(とりかわ)す。隣の里の幼女(わらはめ)等、紅顔にして戯(たはぶ)れれ接(まじ)る。 仙哥(とこよのうた)は寥亮(まさやか)にして、神の儛は透迤(もこよか)たり。其の歓宴(うたげ)を為すこと、人間(ひとのよ)に萬倍(よろづまされ)り。 茲(ここ)に日の暮るるを知らず。但し黄昏(たそがれ)の時、群(もろもろ)の仙侶等(とこよびとたち)、漸々(やうやく)に退散す。 即ち女娘は獨り留まれり。肩を雙べ袖を接(まじ)へて、夫婦の理(まぐはひ)を成す。 |>|語釈|h |単語|解説|h |引導|古訓(二字で)「みちびき」| |揖(ユウ)|胸の前に両手を組み合わせて行う挨拶の礼法。古訓は「をろがむ(拝む)」。| |斯|訓「ここ」| |称説|申し述べる。古訓(二字で)「とく」。| |人間|古訓「ひとのよ」。| |仙都|古訓「とこよ」。| |談義|古訓「かたる」。| |偶|たまたまの意。古訓「たまさか」。| |献酬|杯をやり取りすること。古訓「とりかわす」。| |戯接|古訓「たはぶれまじる」。| |仙哥|古訓「とこよのうた」。| |寥亮(リョウリョウ)|声や音が澄んで通るさま。古訓「まさやか」。| |透迤(トウイ)|道や川が曲がりくねるさま。ここでは身を緩やかにくねらせて踊るさま。古訓「もこよか」。| |歓宴|古訓「うたげ」。| |萬倍|古訓「よろづまされり」。| |茲|訓「ここ」。| |群仙侶等|古訓「とこよびとたち」。「群」は「おおく」「もろもろ」の意。| |漸々|次第々々に。古訓「やうやく」。| |雙|ふたつ並ぶこと。| |接|まじわる。まじえる。| |成夫婦之理|「理」は「ことわり」。古訓は「まぐはひ」。| >''まとめ'' 浦嶋子が訪れた蓬山(常世)は、中国的な仙界のイメージ。 そこでは女娘だけでなく、その父母や兄弟姉妹、近隣の幼女まで、多くの人物たちが登場し、宴も具体的に描かれている。 浦嶋子と女娘は結婚し、肉体的にも結ばれる。その場面も具体的に描かれており、さながらラブ・シーンのようである。 しかし、浦嶋子は望郷の思いに耐えられず、故郷に帰ることになる。ここまで読んで明らかなように、この浦嶋子の話はラブ・ストリー仕立てである。 つまり、子ども向けの昔話や童話ではなく、大人の読み物であった。 #endregion ***第十二講目の内容 [#i1913488] #region(疑問) ''疑問'' 文脈判断が重要。機械的な判断は危険。 |用法|書き下し|現代語訳|備考|h |誰~|たれカ~|誰が~か|「誰~者」で「たれカ~ものゾ」(訳:誰が~か)| |~|たれヲカ~|誰を~か|| |孰~|たれカ~|誰が〔どれが〕~か|多数から選ぶ| |~|いづレカ~|どちらが~か|二者択一| |何~|なにヲカ~|何を~か|| |何・奚・胡~|なんゾ~|どうして~か|| |何為・奚為・胡為~|なんすれゾ~|どうして~か|「何為者」で「なんするものゾ」(訳:何者か)| |安・悪・焉|いづくニカ~|どこに~か|場所を聞く| |~|いづクンゾ~|どうして~か|理由を聞く| |奈何・如何・若何|いかん・いかんセン|どうしよう|「奈A何」・「如A何」で「Aヲいかんセン」(訳:Aをどうしよう)| |何如|いかん|〔状態〕どうだろうか/〔理由〕どうしてだろう|| |幾何|いくばくゾ|〔数量〕どれくらいだろうか|| |何以|なにヲもっテカ|〔理由〕どうして~か/〔手段〕何によって~か|| >''練習問題'' ①誰為&color(Red){&size(10){ニ};};此計&color(Red){&size(10){一};};者。 → ②弟子孰為&color(Red){&size(10){レ};};好&color(Red){&size(10){レ};};学。 → ③何謂&color(Red){&size(10){ニ};};浩然之気&color(Red){&size(10){一};};。 → ④何能爾。 ※爾...「しかる」(そのように) → ⑤何為不&color(Red){&size(10){レ};};去也。 ※也...疑問文の場合の訓は「や」 → ⑥子将&color(Red){&size(10){ニ};};安之&color(Red){&size(10){一};};。 ※之...「ゆく」 → ⑦天下悪乎定。 ※乎...置き字 → ⑧奈&color(Red){&size(10){レ};};若何。 ※若...「なんぢ」(あなた) → ⑨以&color(Red){&size(10){ニ};};子之矛&color(Red){&size(10){一};};、陥&color(Red){&size(10){ニ};};子之楯&color(Red){&size(10){一};};何如。 ※子...あなた ※陥...「とほす」(突くこと) → ⑩其賢幾何 #endregion #region(帰還後の浦嶋子) ''帰還後の浦嶋子'' 『丹後国風土記』の浦嶋子の記事(嶋子が蓬莱を訪れて、帰郷するまでの記述)は、女娘の父母や兄弟姉妹,近隣の幼女など、 多くの人物が登場し、一般的な「浦島太郎」とは違いがある。特に大きな違いは浦嶋子と女娘の結婚がさながらラブ・シーン仕立てで描かれていた点。 二人は別れ別れになり、悲恋に終わるが、明らかにこのお話はラブ・ストリーである。 つまり、子どもための童話などではなく、大人のための読み物であったということ。ここが「浦嶋太郎」との大きな違い。 >''記述(抜粋)'' -''本文'' 忽到本土筒川郷。即瞻眺村邑、人物遷易、更無所由。 爰問郷人曰、水江浦嶼子之家人今在何處。 郷人答曰、君何處人、問旧遠人乎。吾聞古老等相伝、先世有水江浦嶼子、獨遊蒼海、復不還来。 今経三百歳餘者、何忽問此乎。即銜棄心、 -''書き下し文'' 忽ちに本土(もとつくに)の筒川の郷(さと)に到る。即ち村邑(むらざと)を瞻眺(ながめみる)に、人も物も遷易(うつりかはる)、更に由る所なし。 爰(ここ)に郷人に問ひて曰く、水江の浦嶼子の家人は今 何處(いづこ)に在るや。郷人答へて曰く、君は何人なれば、旧遠(むかし)の人を問ふや。 吾 古老等の相ひ伝ふるを聞くに、先の世に水江の浦嶼子あり、獨り蒼海(うみ)に遊びて、復た還り来ず。今三百餘歳経るといへり、 何ぞ忽ち此を問ふや。即ち棄てし心を銜(いだ)きて、 |>|語釈|h |単語|解説|h |本土|古訓「もとつくに」| |郷|むら。行政区画の「郷(きょう)」ではない。| |瞻眺(センチョウ)|瞻は「見る」、眺は「ながめる」。古訓は二字で「ながむ」。ながめみるの意。| |村邑|村も邑も「むら」の意。古訓は「むらざと」。| |遷易|易は「かえる」「かわる」の意。| |爰|訓「ここ」。| |旧遠|古訓は二字で「むかし」。| |者|古訓「てへり」。「...と言った」の意。ここでは「者なり」の訓も可。| |忽|ここでの「タチマチ」は「すぐ」ではなく「おもいがけなく」の意。| |銜(カン)|「口に含む」が本来の意だがここでは「胸に含む」の意と解する。古訓「だく」。| |棄心|古訓「すてしこころ」。「心ヲ棄テ」とは訓じない。放心状態をいう。| |親|古訓「したしきもの」。ここは「おや」の意ではない。| |旬日|十日のこと。| |感思|古訓は二字で「したひ」。| |神女|古訓「かむおとめ」。| >''歌'' -''本文'' 即未瞻之間、芳蘭之體率于風雲、翻飛蒼天。嶼子即乖違期要。 還知復難會。廻首踟蹰、咽涙徘徊、于斯拭涙。哥曰 〽[※万葉仮名] 等許餘弊尓(とこよへに) 久母多智和多留(くもたちわたる) 美頭能睿能(みづのえの) 宇良志麻能古賀(うらしまのこが) 許等母知和多留(こともちわたる) #br -''書き下し文'' 即ち未だ瞻(みえ)ざる間、芳蘭(かぐわしき)體(すがた)風雲率きいられ、蒼天に翻(ひるがえ)り飛ぶ。嶼子即ち期(ちぎり)の要(かなめ)に乖(そむ)き違ふ。 還(ま)た復び會ひ難きことを知る。首(かしら)廻らして踟蹰(たたずみ)、涙に咽びて徘徊す。斯に涙を拭ひて、哥に曰ふ。 〽 常世べに雲立ち渡る水江の浦嶼の子が言持ち渡る #br (この後も「神女」の返歌やそれに対する嶋子の返歌、そして後人の和歌が続くが省略する。) |>|語釈|h |単語|解説|h |未瞻之間|瞻は「見る」。「見えざる間」とは一瞬のこと。| |芳蘭|蘭の花のような良い香のこと。古訓は二字で「かぐわしき」。| |體|「体」に同じ。古訓は「すがた」。| |乖(カイ)|そむくこと。| |還|訓「また」。| |踟蹰(チチュウ)|ためらうこと。古訓は二字で「たたずみ」。| >''まとめ'' ★浦嶋子のお話は、ラブ・ストーリーの要素が強い。(伊予部連馬養の書いた話がラブ・ストーリーだったのか) ★「蓬山」など神仙思想が見られ、中国文化の影響を受けている。(張文成が仙境で崔十娘とその叔母らと情を交わす「遊仙窟」など) ★『丹後国風土記』の浦嶋子伝では、老人になったのではなく、飛行できる仙人になったようだが、神女には再び会うことができなかった。 #endregion ***第十三講目の内容 [#w8fd3513] ***第十四講目の内容 [#qe0c8cbc] ***第十五講目の内容 [#yd139e2f] }} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,20,)